
助手のエヌです。

マスコットのね〜ぼです。
これらの場所は単なる美しい景色や楽しいアトラクション以上のものを提供してくれます。それは、その土地固有の歴史的背景、伝説、そして時には忘れ去られた物語です。
このチャンネルでは、観光地それぞれの歴史を深掘りし、訪れる価値がなぜ高いのか、その背景にあるストーリーを詳しくお伝えします。歴史を通じて、それぞれの場所がどのようにして今の姿になったのかを探っていきましょう。

さて、古くから厄除けと再生の象徴として多くの人々に愛されている川崎大師、正式名称は平間寺。
本日は川崎大師の魅力をたっぷりお伝えしていきます。

川崎大師って名前は聞いたことがありますが、詳しくはよくわからないです!
何が有名なんですか?

川崎大師は空海の仏教の教えの真言宗のお寺で、ここには歴史と自然が融合した特別な場所や伝承が数多く存在しますよー。
戦争の傷跡を乗り越え、再生を遂げた「奇跡のイチョウ」や、悟りへの道を象徴する「やすらぎ橋」など、訪れるだけで心が洗われるようなスポットが満載です。

へー!

もちろん、そういった見所も魅力的ですが、川崎大師の魅力はそれだけではないんです。
創建の伝承や、なぜ「厄除け」と言われるのか、そこにも不思議な伝承があったんです。
初めて訪れる方も、何度も訪れている方も、きっと新たな発見があることでしょう。
さあ、心を清める旅に出発しましょう!

わーい!
創建の伝承

まずは、創建の伝承を見ていきましょう!
昔々、平安時代の末期。
崇徳天皇の時代に、ある一人の男がいました。
名前は平間兼乗(ひらまかねのり)。

彼は尾張国(現在の愛知県)で生まれましたが、無実の罪で追われ、諸国をさまよい続けることに。その末にたどり着いたのが川崎の地でした。
兼乗(かねのり)はそこで漁師として慎ましい生活を送りながら、深く仏法に帰依し、とりわけ弘法大師を熱心に崇拝していました。
しかし、42歳の厄年、彼の人生は大きな転機を迎えます。
ある夜、兼乗(かねのり)の夢枕に高僧が現れました。

「昔、唐の地で私の像を刻み、海に放ちました。しかし、その像は未だ有縁(うえん)の人に出会っていない。
汝よ、速やかに海に網を投げ、その像を引き上げ、供養せよ。
そうすれば、汝の災厄は福徳に変わり、諸願も満足されるであろう」
と告げられました。

ええ?夢で高僧が語りかけてくるって!
なんかホラーですよねー!

ホラーって💦
ここはワクワクするところでしょー
夢のお告げに従い、兼乗(かねのり)は勇気を出して海に出ました。
そして、驚くべきことに、本尊・厄除弘法大師の尊像(そんぞう)を引き上げたのです。
兼乗は尊像を浄め、ささやかな草庵にお祀りし、朝夕欠かさず供養を捧げました。

その後、偶然にも高野山(こうやさん)の尊賢上人(そんけんしょうにん)が兼乗(かねのり)の草庵に立ち寄りました。
尊像奉祀の由縁と兼乗(かねのり)の境遇を知った尊賢上人(そんけんしょうにん)は感激し、二人で力を合わせて、大治3年(1128年)に一つの寺を建立しました。
寺の名は、兼乗の姓にちなんで「平間寺」と名付けられました。

高野山の尊賢上人?

高野山と言ったら、空海の真言宗の聖地ですよ!
なので尊賢上人は真言宗のお坊さんなので、兼乗の話が興味深かったんですね。
平間寺の名は広まり、「厄除弘法大師」としての御本尊は多くの人々に崇敬されました。
そして長承3年(1134年)、兼乗の無実の罪はお大師さまのご加護により晴れ、生国に帰ることができました。
その後も、皇室や11代将軍徳川家斉(いえなり)公の篤い尊信により、川崎大師は江戸庶民の間で「厄除けのお大師さま」として一層広く知られることとなりました。
そして、今日に至るまで、その霊験は多くの人々に信仰され続けています。

川崎大師の創建にはこんな神秘的な伝承があったんですね。

面白いですよねー、川崎厄除け大師は!

でしょ!
じゃあ、川崎大師はなぜ「厄除け」が有名になったか知っていますか?

ええ?なんでなんですかー?

それでは、次はなぜ厄除けと言われるのかについての伝承をお伝えします。

厄除けにも伝承があるんですね
なぜ厄除け
1813年、徳川家斉が11代将軍として日本を治めていました。
しかし、その年、家斉は41歳となり、前厄の年を迎えました。
厄年の不運を避けるため、彼は川崎大師平間寺に厄除け祈願に訪れることを決意しました。
家斉の訪問は寺にとっても一大事。
平間寺の降円上人は心を込めて準備を整えました。
しかし、運命のいたずらか、将軍が訪れる当日に降円上人は急逝してしまったのです。
寺は大混乱に陥りましたが、将軍の祈願を中止するわけにはいきません。
急遽、代役の僧侶が立てられ、家斉の厄除け祈願が行われました。

数日後、降円上人が将軍の訪問の日に急逝したという事実が世間に広まりました。
噂好きな江戸の人々はこれを聞き、次第に「降円上人が将軍様の厄を肩代わりした」と信じるようになりました。
この話は瞬く間に広がり、川崎大師の厄除けの霊験はますます有名になりました。
その結果、厄除け大師としての御利益を求める参詣者が急増しました。
寺の周りは常に人々で賑わい、多くの人々が心の平安と厄除けを求めて訪れました。
こうして川崎大師はさらに名声を高め、今日に至るまでその霊験は人々に信仰され続けています。

将軍のお命の代わりに和尚が亡くなったんですかー?
それは凄いことです!

ちなみに、徳川家斉は特定されるだけで、16人の妻妾を持ち、53人の子女(男子26人・女子27人)を儲けたって言われてるんですよね。

そう考えると、凄いお人を川崎大師は救ったんですねー。
それでは次に、川崎大師の宗派である、真言宗と空海についてお話ししていきましょう。

川崎大師を楽しむためには、空海と真言宗は知っておいた方が楽しめますもんね。
空海(真言宗)
真言宗(しんごんしゅう)は、弘法大師(こうぼうだいし)とも呼ばれる空海(くうかい)という人が始めた仏教の一つの宗派です。

この宗派は「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」という考え方を大切にしています。
これは、今生きている体のままで仏になることができる、という教えです。
空海ってどんな人?
空海は、平安時代(へいあんじだい)に生きたお坊さんで、中国(ちゅうごく)に勉強しに行きました。
そこでは「密教(みっきょう)」という特別な仏教を学びました。
密教は、言葉だけでなく心や体を使って教えを学び、秘密の方法で師匠から弟子へ伝えるものです。
空海は中国で恵果和尚(えか/けいかおしょう)という師匠に出会いました。
恵果和尚はたくさんの弟子がいましたが、その中から空海を特別な後継者(こうけいしゃ)として選びました。
空海は短い間に密教をしっかり学び、帰国して日本にこの教えを広めました。
真言宗の広がり
日本に帰った空海は、各地を回って教えを伝えました。こうして真言宗は日本全国に広まりました。
真言宗は、今では3つの大きなグループに分かれています。
これ以外にも、たくさんの小さなグループがあり、全部で18の宗派があります。これらをまとめて「真言十八本山(しんごんじゅうはっぽんざん)」と呼んでいます。
弘法大師・空海の物語
昔々、奈良時代の終わり頃、774年6月15日に、現在の香川県にあたる讃岐国で男の子が生まれました。
その名は「真魚(まお)」と言います。

この子は後に「空海(くうかい)」と呼ばれるようになる人物です。
真魚は幼い頃からとても頭が良く、伯父の阿刀大足(あとのおおたり)から詩や漢語、儒教を学んでいました。
真魚が15歳になった時、伯父の勧めで都に上り、学問に励むことを決意しました。
18歳で大学に入りますが、そこでは官僚になるための勉強が中心で、真魚が求めている学問とは違っていました。

困っている人を助けるには仏教が必要だと考えた真魚は大学を中退し、お坊さんになることを決めました。
四国や奈良県吉野の山々で修行を重ね、20歳で正式に僧侶となり、22歳で「空海」という名前に改めました。

空海の名前の由来って知ってます?
実は空海が厳しい修行してた場所には空と海しかなくて、目を開けた時にその景色が目に入ってきて名付けたらしいですよー


ええ〜?
そうだったんですか〜?

海と空で『空海』!
かっこいい名前でよかったですよね〜!
修行を続けていた空海は、奈良県にある久米寺で「大日経(だいにちきょう)」という密教の経典に出会います。
しかし、経典を読むだけでは密教の教えを理解できないと考えた空海は、唐(現在の中国)に行くことを決意します。
31歳の時、遣唐使の一員として唐に渡るチャンスを得ました。

唐に渡った空海は、密教を理解するためにサンスクリット語(梵語)を学び、勉強に励みました。
半年後、唐の国師である恵果(けいか)という高僧に出会い、密教のすべてを伝授されました。
806年に日本に帰国した空海は、しばらく太宰府の観世音寺(かんぜおんじ)に滞在した後、京都の寺(現在の神護寺)に入ります。
810年には当時の天皇の支持を受けて真言密教の布教を開始し、816年には高野山を修行の道場としました。
空海が開いた真言宗では、大日如来(だいにちにょらい)を本尊とし、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」という教えが大切にされています。
即身成仏とは、今生きている体のままで仏になれるという教えです。
このために必要な修行が「三密(さんみつ)」で、体の行動(身)、言葉(口)、心(意)の3つを整えることが重要だとされています。

金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山で、日本仏教の聖地とされています。
高野山全体がお寺という考え方から、金剛峯寺は高野山全体を指します。
高野山には117の寺があり、そのうち51ヶ寺は宿坊として宿泊することができます。

どうですか?
空海の生涯は、学問と修行、そして仏教の布教に捧げられました。
彼が開いた真言宗の教えは今も多くの人々に信仰されています。
高野山の金剛峯寺は、空海の教えを感じることができる特別な場所です。
次回の旅行には、ぜひ高野山を訪れてみてください。

はい〜、行ってみたくなりました!
川崎大師〜!

凄いですね〜!
川崎大師!
でも実際に川崎大師に言ったら、どこを見ればいいんですか?

そしたら最後に、川崎大師の見所を伝えていきましょう。
見所

川崎大師はかなり広い境内になっておりまして、見所も沢山あります。
なので、全部はお伝えできないですが、僕のおすすめポイントをお伝えします。
有名なところからマニアックなところまで是非お湯耐えさせてください。
大本堂

川崎大師平間(へいけんじ)寺の象徴とも言える大本堂。
この壮麗な建物は、昭和39年(1968年)5月に落慶しました。
落慶とは社寺の新築または改築工事が完成した祝い。
大本堂は鉄筋コンクリート造りで、朱塗りの柱と梁(はり)が目を引く外観が特徴です。
この色鮮やかな建物は、訪れる人々に強い印象を与えます。
堂内には金箔を施した豪華な厨子(ずし)があり、その中には御本尊である厄除弘法大師が安置されています。
さらに、不動明王(ふどうみょうおう)愛染明王(あいぜんみょうおう)稚児大師(ちごだいし)救世観音(ぐぜかんのん)金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)など、多くの仏像が取り囲むように奉安されています。
大本堂では、毎日護摩修行が行われています。
天台密教や真言密教などの教理に基づいた宗教儀式で、御本尊の前で清らかな火を燃やし、供物(くもつ)(神仏に供える物)を投じて祈願する密教独特の修法です。


この火は煩悩(苦の根元)を焼きつくすことを意味し、霊験あらたかであるとされているんですよね。
この修行では、世界平和、国家安穏(あんのん)、信徒安全が祈願されます。護摩の炎が高く燃え上がる光景は圧巻で、心を清め、願いを込める人々の祈りが感じられます。
大本堂の屋根のてっぺんには、皇室の象徴である菊花の紋章が許されています。

これは、天皇家に認められてきた由縁によるものです。
つまり、寺院の歴史と格式が高いという事です。

川崎大師の大本堂は、その歴史と壮麗な建築、そして毎日行われる護摩修行など、訪れる人々に深い感動と安らぎを与えます。
ぜひこの特別な場所を訪れてみてください。
心を清め、再生の力を感じる素晴らしい体験が待っています。
奇跡の銀杏

昔、この地は戦火に包まれ、平間寺(へいけんじ)もまたその影響を受けました。
境内は焼け野原となり、多くの人々が心を痛めました。

しかし、平間寺には、ある奇跡があるのです。
それが境内にひっそりと佇む奇跡のイチョウです。この銀杏に、人々は再び立ち上がる勇気を得ました。イチョウはすくすくと育ち、今では再生の象徴として多くの人に愛されています。
このイチョウは、遠目から見ると立派で美しい樹木ですが、根元に近づいてみると、驚くべきことに洞(ほら)の内側が黒ずんでいるのが見えます。
この黒ずみこそ、かつての戦争の傷跡なのです。
第二次世界大戦の時、日本は戦火に包まれ、多くの場所が破壊されました。
川崎大師もその例外ではなく、境内は炎に包まれました。
その多くが焼け野原となり、多くの命が失われました。

戦争は2度と起こしてはいけませんね。

そうですね。
その痕跡が今でも残っているなんて、もっといろんな人に知ってもらいたい場所ですね。
しかし、その悲劇の中で、一本のイチョウは、力強く成長したのです。
人々はこの再生の象徴に希望を見出し、奇跡のイチョウと呼ぶようになりました。
この木は、戦争が確かに起こり、その惨劇を乗り越えた証として今に伝えています。
現代の参拝客で賑わう川崎大師の光景からは、かつての惨劇を想像することは難しいでしょう。
しかし、奇跡のイチョウの根元を見ると、その黒ずんだ洞が戦争の記憶を物語っています。
このイチョウは、過去の悲しみと希望の象徴であり、戦争が確かにあったことを今に伝える貴重な存在です。
やすらぎ橋

平間寺(へいげんじ)の境内を進むと、目の前に現れるのが「やすらぎ橋」です。
この橋は鮮やかな朱色に塗られ、見る者の心を魅了します。
やすらぎ橋は災難を消し去ってくれたり、幸福を招くと伝えられています。
橋のふちには、悟りへ向かう段階を表す梵字が刻まれており、渡る人々は心の平安を感じます。
梵語とはインドの文字で、仏教の発祥の地の文字です。

一文字一文字の意味らしく、橋をわたるとその加護を受けられるとか!
また、この橋の下を流れる川のせせらぎは、まるで仏の教えが耳元で囁かれているかのようです。
やすらぎ橋を渡ると、まるで心の中の重荷が軽くなり、清らかな気持ちで満たされます。

いい場所ですね〜。
時間がゆっくり流れているみたい。

水の音が心地良さそうです。
八角五重塔[中興塔]

川崎大師には「八角五重塔(はっかくごじゅうのとう)」というとてもきれいな塔があります。
この塔は、1984年に弘法大師(こうぼうだいし)の1150年のお祝いとして建てられました。
この塔は、8つの角を持つ形をしていて、とても華やかで美しいデザインです。
塔の形は、真言宗(しんごんしゅう)の仏教の教えに基づいて作られていて、「包容力(ほうようりょく)」(みんなを包み込む力)や「完全性(かんぜんせい)」(完璧さ)を表しています。
この塔は、5つの層(階)が積み重なっています。
それぞれの層には、重要な仏像や絵が飾られています。

八角五重塔の中ってどうなってるんですか?
いつも入れるんですか?

八角五重塔の中はいつも入れるわけではないみたいです。
なので、入れる日に参拝に行けたなら、是非中を見てみてくださいね。

僕もこの間行ってきましたが、残念ながら鍵が閉まっておりましたー。
大山門

大山門(だいさんもん)は、川崎大師にある大きな門です。
この門は、川崎大師ができてから850年を記念して、1977年の11月に完成しました。
}大山門は、お寺の重要な建物やエリアを守るための大きな入り口です。
大山門には、四つの方向(東西南北)を守る四天王(してんのう)の像があります。
この像は、京都の東寺(とうじ)にある国宝の四天王像をもとに作られました。
持国天(じこくてん) – 東の方向を守ります。
増長天(ぞうじょうてん) – 南の方向を守ります。
目天(こうもくてん) – 西の方向を守ります。
多聞天(たもんてん) – 北の方向を守ります。

四天王なんてかっこいいですね。
持国天(じこくてん)

方向: 東
役割: 持国天は東の方角を守る神様です。「持国」とは「国を持つ」という意味で、国土や世界を守る役割があります。
特徴: 持国天は剣を持っていることが多く、悪を切り払い、平和を守る象徴です。凛々しい姿が特徴で、戦士のような姿で描かれることが多いです。
増長天(ぞうじょうてん)

方向: 南
役割: 増長天は南の方角を守る神様です。「増長」とは「成長する、発展する」という意味で、仏教の教えが広がり、発展することを守ります。
特徴: 増長天は槍や棍棒を持っていることが多く、力強い姿が特徴です。敵を退け、仏教の教えが広がるのを助ける守護神です。
広目天(こうもくてん)

方向: 西
役割: 広目天は西の方角を守る神様です。「広目」とは「広く見る」という意味で、仏教の教えが正しく広まるように見守ります。
特徴: 広目天は筆や巻物を持っていることが多く、知恵と教えの守護者として描かれます。広い視野で世界を見守り、真実を伝える力を持っています。
多聞天(たもんてん)

方向: 北
役割: 多聞天は北の方角を守る神様です。「多聞」とは「多く聞く」という意味で、知識や富を集め、守る役割があります。
特徴: 多聞天は宝塔や宝珠を持っていることが多く、富と知恵の象徴です。戦士の姿で描かれることもあり、強い力で仏教の教えを守護します。また、多聞天は毘沙門天(びしゃもんてん)としても知られています。

どの像もかっこいいですね〜。

この大山門は、建物としてもとても優れていて、昭和54年(1979年)には「神奈川県建築コンクール」の一般建築部門で優秀賞を受賞したんですって。

大山門に行くと、この4っつの像が一気に見れるのでお得ですよ!
川崎大師に行く前の賑やかな商店街を抜けるとこの門が迎えてくれるんです。
圧巻です!
しょうづかの婆さん

昔々、日本では人が亡くなると、「三途の川(さんずのかわ)」という川を渡ると考えられていました。その川で、亡くなった人の服を取るおばあさんがいました。
そのおばあさんを「奪衣婆(だついば)」と呼びました。

でも、この名前が変わって、「しょうづかの婆さん」と呼ばれるようになりました。
「しょうづかの婆さん像」は、昔、東京の品川(しながわ)にある「お台場(おだいば)」にいたと言われています。
ここでは、「台場の久兵様(だいばのきゅうべえさま)」とか「歯のお地蔵さん(はのおじぞうさん)」とも呼ばれていました。
昔から「しょうづかの婆さん」は、いろいろなお願いを叶えてくれると信じられていました。

特に次のようなご利益があります。
・歯の痛みを治す : 歯が痛い人がお願いすると、痛みが和らぐと言われています。
・美しくなる : 容貌(ようぼう)を美しくする力があると信じられています。
・健脚(けんきゃく) : 足が丈夫になるようにお願いする人が多いです。
・その他の願い : いろいろなお願いを叶えてくれると信じられています。

今でも、「しょうづかの婆さん」を信じて、お参りする人がたくさんいるようです。
特に、女優やモデルが願いを叶えたいと訪れる隠れた人気スポットなんですって。

ええ〜?
そしたら私も行かなくちゃですね!
私はモデルを目指してますからね!

そ、そうだったんですね・・・
・・・ね、ね〜ぼ、お、応援してます・・・💦
遍路大師尊像

川崎大師平間寺(かわさきだいしへいけんじ)には、「遍路大師尊像(へんろだいしそんぞう)」という特別な像があります。
この像は、弘法大師(こうぼうだいし)空海の誕生1200年を記念して、1973年に作られました。
弘法大師が旅をしている様子を生き生きと表現しています。

立派なそうですね。
この像の前には、健康や元気に歩けることを願ってお水をささげる人たちがたくさんいます。

また、像の周りは「新四国八十八ヶ所霊場(しんしこくはちじゅうはっかしょれいじょう)」として整備されています。これは、四国にある88か所のお寺を巡る旅のことを再現した場所です。
お遍路参りとは、弘法大師(空海)ゆかりの四国八十八ヶ所の霊場を巡拝する旅です。
徳島県、高知県、愛媛県、香川県に点在する霊場を、徳島から高知、愛媛、香川の順に巡る「回遊型」の参拝ルートが特徴です。
この霊場には、四国霊場を巡る旅から持ち帰った「お砂(おすな)」が埋められています。
このお砂を踏むことで、お寺を巡る旅と同じご利益があると言われています。
全国からたくさんの人たちがこのお砂を踏むために訪れます。

ここにこれば、四国のお寺を回らなくてもいいんですか?

そうなんです。
お得でしょー!

私はしっかり、四国を回りたい派ですけど、どうしても行けない方や体力や時間がない方にはほんとおすすめですよね。
ED
川崎大師の魅力を存分に楽しんでいただけましたか?
川崎大師は、その歴史や伝承だけでなく、訪れる人々の心を癒し、清めるパワースポットです。「奇跡のイチョウ」や「やすらぎ橋」を巡りながら、過去の悲しみと希望の物語に触れることで、より深い感動を味わえるでしょう。
ぜひ、次の休日には川崎大師を訪れてみてください。
静寂と賑わいが調和したこの場所で、あなたも心の安らぎと再生の力を感じることができるはずです。素敵な旅を!
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