助手のエヌです。
マスコットのね〜ぼです。
今日は、東京都渋谷区に位置する日本の歴史と文化の象徴、明治神宮をご紹介します。
明治天皇と昭憲皇太后の神霊を祀るこの神社は、1920年に創建され、以来、多くの観光客と参拝者が訪れる人気スポットとなっています。
初詣では日本一の参拝者数を誇り、その壮大な敷地と豊かな自然が訪れる人々に癒しと感動を与えてくれるんですよね。
癒しと感動?
ほんとですか〜?
それは最後まで読んでのお楽しみです。
でもきっと読んで頂ければ、明治神宮に行きたいと思ってもらえると思いますよ。
明治天皇の生い立ちから、昭憲皇太后の功績、そして明治神宮の見どころについて詳しくお話しします。
さあ、歴史と自然が融合したこの素晴らしい場所を一緒に探検していきましょう!
イントロダクション
明治神宮は、東京都渋谷区にある重要な神社で、明治天皇と昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の神霊を祀っています。
1920年に創建され、明治時代の日本の近代化を象徴する存在です。
広大な敷地と豊かな自然に囲まれ、多くの観光客や参拝者が訪れる人気スポットで、初詣では例年日本一の参拝者数となります。
主祭神
- 明治天皇と昭憲皇太后の神霊を祀る背景
明治天皇の幼少期〜天皇になるまで
明治天皇の誕生
江戸時代末期、京都に住む中山さんというお屋敷がありました。
秋の色づく木々に囲まれ、空には金色の光が輝いていました。
ある日のこと、中山さんの家に赤ちゃんが生まれました。
この赤ちゃんは、後に明治天皇となるのです。
赤ちゃんが生まれたのは1852年11月3日の午後1時ごろでした。
お母さんの名前は慶子で、お父さんは孝明天皇でした。
お母さんの慶子は、中山忠能(ただやす)という偉い人の娘でした。
赤ちゃんが生まれる前、中山一家は一生懸命に準備をしていました。
中山忠能は、孫が生まれるのをとても楽しみにしていました。
だから、娘の慶子が妊娠したと知ると、すぐにお産の準備を始めました。
産殿(うぶや)という特別な部屋を作るために、多くのお金が必要でしたが、中山家には足りませんでした。
そこで、朝廷からお金を借りて、立派な産殿を作りました。
妊娠中、慶子さんは一度高い熱を出してしまい、心配されましたが、無事に乗り越えました。
赤ちゃんが生まれる直前、中山忠能は、特別なお水を汲んだり、神様にお祈りをしたりして、無事に赤ちゃんが生まれるように願っていました。
いよいよ赤ちゃんが生まれる日が近づくと、陰陽師(おんみょうじ)という占い師が出産の方角を占いました。
そして、ついに11月3日の午後1時ごろ、慶子は無事に男の子を出産しました。
中山忠能は大喜びで、すぐにみんなに知らせました。
孝明天皇は、お庭で菊の花を眺めながらお酒を飲んでいる時に、赤ちゃんが生まれたことを知らされました。天皇はとても喜び、さらにお酒を飲みました。
当時、孝明天皇には他にも子どもがいましたが、皆幼い頃に亡くなってしまっていました。
だから、この男の子の誕生は特別な喜びでした。
赤ちゃんは、生まれてすぐに特別な儀式を受け、清められました。そして、「祐宮(さちのみや)」という名前をもらいました。
この名前は、天からの助けを意味していて、とても縁起の良いものでした。
赤ちゃんは最初の数ヶ月、中山家で育てられ、その後、少しずつ御所(ごしょ)に通うようになりました。こうして、祐宮は将来の天皇として大切に育てられていったのです。
そして、この祐宮が後に明治天皇として、日本の歴史に大きな影響を与えることになるのです。
御所での日々
祐宮(さちのみや)は4歳のとき、京都の中山邸から御所に引っ越しました。
新しい生活に慣れるのに少し時間がかかり、最初の2か月はとても不安定な気持ちで過ごしました。
でも、母の中山慶子と一緒に住むようになり、少しずつ安心していきました。
御所に引っ越してから、孝明天皇は祐宮(さちのみや)が早く御所に慣れるように、いろんな宮中行事に参加させました。
こうして、祐宮(さちのみや)は天皇のお仕事をたくさん見て学びました。
祐宮が5歳のとき、初めて和歌(わか)を作りました。
「月見れは雁がとんてゐる 水の中にも うつるなりけり」
それは「月を見ていると、雁(かり)が飛んでいて、その姿が水の中にも映っている」という情緒のある素敵な詩でした。
雁はカモ化の鳥の一種ですね。
天皇は祐宮(さちのみや)が和歌を作るたびにお菓子をあげました。
また、祐宮は習字も学び始めました。
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたてひとしんのう)が教えてくれました。
天皇は祐宮(さちのみや)が将来立派な天皇になるようにと、たくさんの学びを用意しました。
祐宮は他の子供たちと一緒に、木刀で遊んだり、水鉄砲で遊んだり、木馬に乗ったりしました。
特に木馬に乗るのが大好きで、新しいおもちゃをもらってもすぐに木馬に戻ってしまいました。
8歳になると、祐宮は「睦仁(むつひと)」という新しい名前をもらいました。
そして、親王(しんのう)という大事な役職に就きました。
これからは「睦仁親王」と呼ばれるようになりました。
睦仁親王はとても活発で、いたずら好きでした。
ある時は、友達と一緒にいたずらをして、罰として御所の御文庫に閉じ込められることもありました。でも、それでも睦仁(むつひと)親王は元気いっぱいで、いろんなことを学びながら成長しました。
親王は和歌を作るのも好きでした。
孝明天皇は親王に和歌を教えるのを楽しみにしていたと言われています。
孝明天皇は亡くなるまで、親王に和歌を教え続けました。
こうして睦仁親王は、たくさんの愛情と学びの中で、幼少期を過ごしたのです。
幕末の動乱
こうしてすくすく育った睦仁親王でしたが、世の中は幕末の時代です。
江戸時代も終わりに近づき、日本の政治は大混乱していました。
ある年の夏、江戸幕府がアメリカと貿易の約束をしました。
でも、この約束をする前に天皇の許可をもらわなかったため、大問題になりました。
孝明天皇は怒り、約束を取り消すように幕府に強く求めました。
しかし、幕府は他の国々とも約束を結ぶつもりで、天皇の命令に従いませんでした。
これに対して、多くの藩(今の県のようなもの)や武士たちは天皇を守り、外国を追い払う「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」という運動を始めました。
この運動を恐れた幕府の大老、井伊直弼(いいなおすけ)は、尊皇攘夷を支持する人々を弾圧しました。これが「安政の大獄(あんせいのおおごく)」と呼ばれています。
この時、睦仁親王は3歳でした。
尊皇攘夷を支持する元水戸藩や薩摩藩の武士たちは、井伊直弼を討つ計画を立てました。
ある日、桜田門の外で彼を襲撃し、討ち取りました。
これが「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」です。
この出来事で幕府の威信は大きく揺らぎました。
この時、睦仁親王は7歳です。
幕府は天皇との関係を改善しようと、天皇の妹、和宮(かずのみや)を将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚させることにしました。
孝明天皇は最初、これに反対しましたが、幕府が10年以内に外国との約束を取り消すことを条件に、和宮を将軍に嫁がせることを許しました。
これは同じ年に起こった事なので、睦仁親王は7歳でした。
その後も、幕府は天皇や尊皇攘夷派との関係を修復しようと努めましたが、各地で尊皇攘夷運動が激化し、幕府は次第に力を失っていきました。
尊皇攘夷派が力を強めた結果、幕府は天皇の命令で、外国を追い払うための軍事訓練を行うことになりました。
天皇と一緒に訓練を見学したのは、若き睦仁親王(むつひとしんのう)でした。
彼は将来の天皇となる人物で、この経験から多くのことを学びました。
やがて、幕府と尊皇攘夷派の対立は激化し、長州藩(ちょうしゅうはん)は外国船を攻撃しました。
これにより、尊皇攘夷派の勢いはさらに増しました。
そして、長州藩や他の藩は天皇を中心に結束し、幕府に対して反乱を起こす計画を立てました。
しかし、幕府も反撃し、尊皇攘夷派を排除するために動きました。
ある日、京都で大きな戦いが起こり、長州藩は敗北しました。
これが「禁門の変(きんもんのへん)」です。
そして第一次長州征伐が行われるのです。
禁門の変、第一次長州征伐の時、睦仁親王は12歳でした。
今でいう小学6年生ぐらいの年ですね。
その後も、天皇と幕府、そして尊皇攘夷派との間で激しい争いが続きました。
幕府の将軍が亡くなり、新しい将軍が立てられましたが、幕府の力はますます弱まりました。
最後に、天皇は病気で亡くなりました。
睦仁親王は深く悲しみましたが、彼は新しい時代の天皇として、日本の未来を背負うことになりました。
この時、睦仁親王は15歳でした。
こうして、幕末の動乱の中で、天皇や武士たちの戦いが続き、日本は新しい時代へと進んでいったのでした。御年わずか16歳で皇位をお継ぎになったのです。
その年に、大政奉還、王政復古の大号令で明治時代が始まるのです。
昭憲皇太后の生涯
誕生と幼少期
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、嘉永3年(1850年)に一条忠香公(いちじょうただかたこう)の三女として生まれました。
幼い頃からとても賢く、優しく、謙虚で、誠実な女性として知られていました。
特に女子の教育を大切にし、愛と慈善の活動に大きな貢献をされました。
女子教育への貢献
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、お茶の水にある東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の設立に多額の資金を提供しました。
また、開校式にもご参加されました。
日本赤十字社への貢献
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、日本赤十字社の設立と運営にも尽力しました。
彼女が設立した「昭憲皇太后基金」は、赤十字の平時の救助活動のモデルとなり、世界中の多くの国々で役立っています。
この基金の恩恵を受けた国は170カ国にも及びます。
崩御
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、大正3年(1914年)4月11日に亡くなられました。
彼女は明治天皇が亡くなった後、まるで後を追うかのように崩御されました。
彼女のお墓は伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)にあります。
ちなみに明治天皇のお墓の伏見桃山陵の東隣にあります。
和歌の才能
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、生涯で3万首を超える和歌を詠みました。
その一部は『昭憲皇太后御集(みうた)』として伝わっています。
彼女の和歌は非常に評価が高く、特に
「みがかずば 玉も鏡も なにかせむ 学びの道も かくこそありけれ」
どんな宝石も、掘り出された原石のままではただの石ころ同然。
磨かれて初めて、美しく光り輝く価値ある宝石となる。
さらに丹念に手入れをし、磨けば磨くほど輝きは増していく。
人間も同じ。
きちんとした教育があり、学びつづけることで人間的魅力は増していく。
という歌は、学業の大切さを表現しています。
素晴らしい言葉ですね。
この言葉は東京女子師範学校ができたときに贈られた言葉です。
お茶の水女子大学となった今でも受け継がれています。
これは日本で最初の校歌として有名なんですよ。
神社の建立の経緯と現代まで
明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祀る神社として、1920年に東京に創建されました。
明治天皇が1912年に崩御した際、彼を記念する施設を東京に建設する計画が持ち上がりました。
当時の東京は天皇の首都として定められており、数年後の即位50年記念行事の準備が進行していました。
しかし、明治天皇の遺志により、天皇陵は京都の伏見桃山陵に造営されることになりました。
それでも、東京に彼を記念する神社を建てる運動が続きました。
当初、多くの提案は銅像や記念碑、美術館などの施設でしたが、最終的に神社の建立が決定されました。
最初は神社の予定ではなかったんですね。
神社の設立は、単なる「記念」を超えた、国民の天皇への尊崇の念を表すものでした。
1912年、実業家の渋沢栄一と東京市長らが中心となり、神宮創設の具体案がまとめられました。
この案は内苑と外苑から成り、内苑は国費、外苑は寄付金によって造営されることになりました。
内苑には代々木御料地、外苑には青山練兵場が最適とされました。
1913年、神社の創設が正式に決定され、1915年に明治神宮の創建が告示されました。
大正天皇によって東京の代々木御料地が鎮座地に選ばれ、政府と国民の寄付によって造営が進められました。
第一次世界大戦後、全国の青年団による勤労奉仕が行われ、外苑には野球場や相撲場などの運動施設が加えられました。
これにより、外苑は「青年のための外苑」としての色彩を強めました。
1920年11月1日に鎮座祭が行われ、明治神宮が正式に創建されました。
太平洋戦争中、明治神宮は空襲によって被害を受けましたが、戦後に復興が進められました。
1950年代には、全国からの寄付と勤労奉仕によって新社殿が建設され、1958年には新本殿への遷座の儀が行われました。
何故この地に?
明治神宮が現在の場所に建てられた理由には、いくつかの重要な要素があります。
まず、代々木の地は江戸時代初期には加藤家とそしてその後、井伊家の下屋敷ができていましたが、1874年に明治政府がこの土地を購入し、宮内省の管理下に置かれました。
昭憲皇太后の体調を気遣った明治天皇は、この地を美しい庭園に整備しました。
それが現在の「明治神宮御苑」です。
1912年に明治天皇が崩御し、1914年に昭憲皇太后も崩御した後、両者ともお墓は京都にありましたが、国民の間で「明治天皇と昭憲皇太后を永遠に敬いたい」という強い願いが高まりました。
この要望を受けて、両者とゆかりの深い代々木の地に明治神宮が建てられることが決定されたのです。
国民から愛されていたんですね。
代々木の地は広大な敷地を確保でき、森や庭園を造るのに適した環境条件が整っていました。
これにより、人工的に植林された「鎮守の杜」が創設され、現在では約70万平方メートルの広大な杜が広がっています。
多くの候補地が検討されましたが、明治天皇と昭憲皇太后に深い縁のある代々木が最終的に選ばれたのです。
このような理由から、明治神宮は現在の代々木の地に建てられました。
見所
1. 本殿
明治天皇と昭憲皇太后を祀る本殿は、明治神宮の中心的なスポットです。
まず最初に参拝し、神様に敬意を払うことが推奨されます。
本殿は明治神宮の中で最も神聖な建物であり、神霊が祀られている最深奥の聖所が収められています。ここでは、神官たちによって様々な祭儀が行われており、日々の御神饌(ごしんせん)を奉納し祈祷を捧げる御日供祭も毎日午前8時と午後2時に行われています。
御神饌ってなんですか?
御神饌とは神道において神様に捧げる食事の総称で、神様をもてなし感謝の気持ちを伝えるとともに、お下げした食物を人がいただくことで「神人共食(しんじんきょうしょく)」の一体感を得る儀式でもあるんですよ。
この本殿とその周囲の建物は、日本のヒノキで作られており、その多くは長野県木曽のものが使用されています。
屋根は銅で覆われており、この銅屋根が本殿の威厳をさらに引き立てています。
本殿は流造(ながれづくり)様式で造られており、神社建築の中でも人気のあるスタイルです。
このスタイルでは、正面の屋根が長く延びて階段を覆い、独特の美しいシルエットを描いています。
本殿の周囲には祝詞殿、内拝殿、外拝殿があり、特に外拝殿は神宮の正面に位置し、参拝者が祈りを捧げる場所です。
この神聖な空間は、1920年に初めて建立されましたが、第二次世界大戦の戦火により焼失してしまいました。
しかし、1958年に新たに再建され、今では再び多くの人々が訪れる場所となっています。
本殿の再建に際して、防火の理由から元の建物に使用されていた木の樹皮ではなく、銅が使用されました。
この銅屋根が、新しい本殿に現代的な美しさと耐久性を与え、訪れる人々に深い感動を与えています。明治神宮の本殿は、歴史と伝統を受け継ぎながらも、未来に向けて新たな一歩を踏み出しているのです。
明治神宮の本殿の伝統的な神社建築様式
設計は著名な建築家、伊東忠太が指導し、内務省神社局が担当しました。
建物は伝統的な神社建築様式を採用し、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根や銅板葺(どうばんぶき)の構造が特徴です。
明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后の偉業を称えるために建立され、豊かな森と共にその歴史と文化を今に伝えています。
訪れる際には、本殿だけでなく、広大な敷地に広がる鎮守の杜や御苑も楽しんでください。
夫婦楠(めおとくす)と神楽殿
夫婦楠(めおとくす)は良縁や夫婦円満を願う象徴として人気の高いスポットです。
夫婦楠(めおとくす)は、明治神宮の本殿脇に立つ2本のクスノキで、縁結びや夫婦円満の象徴とされています。
これらの木は、明治天皇と昭憲皇太后の仲睦まじい関係を象徴しており、訪れる人々に良縁や家庭の平和を祈願する場所として人気です。
夫婦楠は、縁結びや恋愛成就、夫婦円満のご利益があるとされています。
夫婦楠の前で祈願すると、良縁や夫婦の和がさらに深まると言われています。
また、明治神宮で授与される「相和守(そうわまもり)」は、夫婦やパートナーのためのお守りで、夫婦楠のパワーを象徴しています 。
夫婦楠の周りには特別な参拝方法があります。
まず、木の前で静かに心を落ち着けてから、両手を合わせて願いを込めることが推奨されています。
また、夫婦楠の間から本殿に向かって参拝すると、さらにご利益があるとされています 。
神楽殿
明治神宮の神楽殿は、祈願祭などの神事が行われる場所です。平成5年に「平成の御大典」として造営されたこの建物では、神楽舞や祝詞の奏上(そうじょう)などが行われ、神のご加護を祈ります 。
神楽殿では、大太鼓の音に合わせてお清めのお祓いが行われ、巫女が神楽「倭舞(やまとまい)」を舞います。
「倭舞(やまとまい)」?
「倭舞(やまとまい)」というこの神楽舞は、神楽殿で祈願をされる方々のために特別に作られたもので、祈願の際に心を清め、神の加護を受ける儀式見たいですよ 。
これらの情報を基に、明治神宮を訪れる際には、夫婦楠と神楽殿をしっかりと参拝し、それぞれのご利益や伝承を感じてみてください。
8. 御神紋の菊と桐
明治神宮の御神紋には菊と桐が使われており、明治天皇の私的・公的な性質を象徴しています。
明治神宮の御神紋の菊と桐について
明治神宮の御神紋には「菊」と「桐」の二つの紋章が用いられています。
これらの紋章には深い歴史と意味があります。
菊紋の由来と意味
菊の紋章は、天皇および皇室を表す象徴的な紋章です。
特に「十六八重表菊(じゅうろくやえおもてぎく)」と呼ばれる16枚の花弁を持つ菊の紋章が天皇の象徴として用いられています。
菊は古代バビロンの時代から装飾に使われ、奈良時代に中国を経由して日本に伝わりました。
日本では、不老長寿や邪気払いの象徴として重宝され、天皇家の紋章として定着しました。
明治神宮では、皇室に敬意を示すため、菊の花弁の数を12枚としています。
これは、16枚の菊を使用するのは皇室のみとするための配慮から来ています。
したがって、明治神宮の授与品や御朱印には、12枚の菊の紋が描かれています。
でも鳥居の菊の門は16枚の花びらでしたよ〜?
そうなんですよね〜!
授与品や御朱印など配るものは配慮したと言う事なのでしょうか。
一応、昭和の時代になってからは、皇室の象徴である16枚の菊ではなく、12枚の菊と桐を併用するデザインが導入さるようになったと言う話はあるのですが・・
桐紋の由来と意味
桐の紋章も古代から使われており、特に「鳳凰が棲む木」として神聖視されてきました。
桐は、天皇の衣類や文様に用いられていた歴史があり、戦国時代には足利氏や豊臣秀吉などの武将たちも使用するようになりました。
現代では、桐の紋は日本政府の象徴としても用いられています。
明治神宮での使用理由
明治神宮では、これらの歴史的背景を持つ菊と桐の紋章が併用されています。
明治時代に建設された明治神宮では、天皇を祀る神社としての格式を示すために、この二つの紋章が選ばれました。
菊の門は、いろんなところで発見できるらしいのですが、桐の門はなかなか見つけられないそうです。
南神門両脇門の扉に描かれていると言う情報のみゲットしました。
後は、御朱印などにも桐紋の記載があるのですが、他の建造物にあるのかは行った際に探してみてください。
明治神宮は菊と桐、両方の紋章が見られる数少ない神社なのだそうです。
このように、明治神宮の御神紋には日本の歴史と伝統が深く反映されています。訪れる際には、これらの紋章にも注目してみると、その奥深い背景に触れることができるでしょう。
2.正参道・南参道
88度の曲がり角
概要と場所
明治神宮の88度の曲がり角は、本殿に向かう途中にある「桝形(ますがた)」と呼ばれる曲がり角のことです。
この曲がり角は、明治神宮の参道の途中に位置し、参拝者が本殿に向かう際に通る重要なポイントです 。
有名な理由と縁起
この曲がり角が有名な理由は、「88度」という角度に設定されていることにあります。
88度は「末広がりの8」にちなんでおり、日本では8という数字が縁起が良いとされています。
そのため、この曲がり角を通ることで、参拝者に幸運がもたらされると信じられています 。
由来と伝承
88度の曲がり角が設置された背景には、設計者の縁起を担ぐ意図がありました。
明治神宮の設計者たちは、参拝者が幸せになることを願い、この角度に設定したと伝えられています。実際にいつからこの角度が採用されたかについての具体的な年は明確ではありませんが、明治神宮の創建時から続くものであると考えられます 。
言われないと絶対気づかないですよね〜。
凄いですよね〜!
ほぼ90度ですから、88度って!
参拝者がこの曲がり角を通る際には、その縁起の良さを感じながら進むことが推奨されています。
この曲がり角を意識して通ることで、参拝者はより一層のご利益を得られると信じられています 。
奉納された日本酒とワイン樽
明治神宮には、参道沿いに日本酒の酒樽とワイン樽が奉納されています。
これらの樽は、神社を訪れる多くの参拝者の目を引く、独特で印象的な光景を作り出しています。
日本酒の奉納酒樽
日本酒の酒樽は、全国の酒蔵から寄贈されたものです。
これらの酒樽は、神事に使われるだけでなく、豊作祈願や感謝の意を込めて奉納されています。
酒樽には、各酒蔵の名前や銘柄が記されており、訪れる人々に日本各地の伝統的な酒文化を感じさせます。
明治神宮に奉納されているお神酒の中でも、特に豊島屋酒造の「金婚正宗」が長年にわたり献上されています。
「金婚正宗」は明治天皇の結婚して二十五年たった夫婦が行う念銀婚式をお祝いする願いを込めて銘名されました。
明治神宮と神田明神、東京二大神社の御神酒(おみき)として納められている唯一のお酒です。
御神酒(おみき)ってなんですか?
御神酒とは、神様にお供えするお酒のことですよ。
ワイン樽の奉納
一方、明治神宮にワイン樽が奉納される背景には、明治天皇が西洋文化を積極的に取り入れたことがあります。
特に明治天皇はワインを好んでおり、この影響からフランスのブルゴーニュ地方からワイン樽が奉納されるようになりました。
現在、参道には約60樽のワイン樽が並んでいます。
これらのワイン樽は、ブルゴーニュ地方の生産者によって寄贈されたもので、各ドメーヌの名前や銘柄が記されています。
明治神宮の奉納酒樽とワイン樽は、日本と西洋の文化が融合した象徴的な存在です。
これらの樽を見ながら参道を歩くと、明治時代の文化的な背景と、現在まで続く伝統を感じることができます。
神社を訪れる際には、ぜひこれらの奉納樽にも注目してみてください。
日本でも有数の大鳥居
明治神宮の大鳥居は、日本で有数の大きさを誇る木造の明神鳥居です。
以下に、その詳細を紹介します。
大鳥居の概要
- 高さ: 約12メートル
- 幅: 約17.1メートル
- 柱の直径: 1.2メートル
- 使用された木材: 樹齢1500年以上の台湾檜
歴史と背景
初代の大鳥居は、明治神宮創建時の1920年(大正9年)に建立されました。
この大鳥居の材木は台湾産の檜で、台湾総督府から献木されたものです。
明治時代当時は台湾は日本の領土だったんですよ
しかし、初代の大鳥居は落雷で損傷し、1975年(昭和50年)に現在の大鳥居に建て替えられました。初代の大鳥居はその後、埼玉県の氷川神社に移設されました 。
特徴と構造
大鳥居は、建築時に木材を「水中乾燥」という方法で処理しました。
これは木材を水に沈めることで、後のひび割れや収縮を防ぐための伝統的な乾燥方法です。
この方法を用いることで、大鳥居の耐久性が高まりました。
参道の注意点
大鳥居をくぐる際は、参道の中央を歩かないように注意しましょう。
ええ?なんでですか?
中央は「正中(せいちゅう)」と呼ばれていて、神様の通り道とされているからですよ。
明治神宮の大鳥居は、その大きさと歴史的背景から、訪れる人々に深い印象を与えます。
明治神宮を訪れる際には、ぜひこの壮大な大鳥居をじっくりと見て、その歴史と美しさを感じ取ってください。
3. 鎮守の杜
鎮守の杜は詳しく別の記事に書きました。
この森は実はただの森じゃないんです。
是非、こちらの記事を読んで下さい。
4. 北池の亀石
概要と場所
亀石(かめいし)は、明治神宮の北池の近くにある大きな石で、その形状が亀に似ていることからその名が付けられました。
この石は、宝物殿の近く、芝生広場の北池周辺に位置しています。
訪れる際には、本殿からさらに奥に進んだ場所にあり、静かで人の少ないエリアにあります 。
伝承と意味
亀石はパワースポットとして知られており、特に健康運や長寿運に効果があるとされています。
亀は古来より長寿の象徴とされており、その形をした亀石に触れることで、そのエネルギーを受け取ることができると言われています。
また、この石に触れることで、癒しや心の安定を得られるとも信じられています 。
気持ちよさそうな場所ですね〜。。
訪れる際のポイント
亀石は特に囲いがなく、自由に触ったり、近くで休憩したりすることができます。
石の周囲には広々とした芝生が広がっており、都会の喧騒を忘れてリラックスするのに最適な場所です。
訪れた際には、亀石に触れてそのエネルギーを感じながら、周囲の自然を楽しむことをおすすめします。
亀石は、明治神宮の他のパワースポットと共に、多くの参拝者にとって特別な意味を持つ場所です。
訪れる際には、その静けさと自然の美しさを楽しみながら、亀石のエネルギーを感じてみてください。
5.明治神宮御苑の概要
明治神宮御苑は、明治天皇が昭憲皇太后のために整備した美しい庭園です。この庭園は、四季折々の風景が楽しめる静かな場所で、訪れる人々に癒しと安らぎを提供しています。
主な見どころ
御苑と清正井(きよまさのいど)
明治神宮御苑は美しい庭園で、特に清正井戸が有名です。
この井戸の水は透明度が高く、神秘的な雰囲気を持つパワースポットです。
清正井戸がある御苑の場所は、江戸時代に加藤家の下屋敷がありました。
その後、井伊家の下屋敷となり、明治時代には宮内省の管理下に置かれました。
明治天皇と昭憲皇太后がこの場所を庭園として整備し、清正井戸もその一部として保存されました 。
加藤清正(かとう きよまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、豊臣秀吉の家臣として知られています。
彼は築城の名手としても有名で、多くの城を築きました。
また、朝鮮出兵にも参加し、その際に多くの功績を残した人物です。
清正井戸の由来
明治神宮の清正井戸は、加藤清正が掘ったと伝えられています。
この井戸は、加藤清正が江戸時代初期にこの地に下屋敷を構えた際に作られたものです。
彼の名を冠した井戸は、その優れた水質と巧妙な掘り方で知られており、現在でも清らかな湧水をたたえています。
南池
- 庭園の中央に位置する池で、昭憲皇太后が愛でた場所です。池の周囲には、春には桜、夏には花菖蒲、秋には紅葉、冬には雪景色と、四季折々の風景が楽しめます。
菖蒲田
- 150種類、約1500株の花菖蒲が植えられており、6月には美しい花が咲き乱れます。これは昭憲皇太后が特に好んだ花であり、見頃には多くの観光客が訪れます。
隔雲亭(かくうんてい)
- 昭憲皇太后が休憩に利用した御休所です。
隔雲亭があった為、明治天皇夫妻にとっても思い出深い場所で、明治神宮の建立場所となったのです。
この茶亭は、庭園の美しい景色を眺めながら、静かな時間を過ごすことができます。
釣り台
- 釣り台は、御苑内の南池に設けられた釣り場で、昭憲皇太后がよく釣りを楽しまれた場所です。南池の美しい景色を眺めながら、静かに釣りを楽しむことができるこの釣り台は、御苑の風情を感じるための特別なスポットの一つです。
エンディング
皆さん、今日は明治神宮の魅力についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?
明治天皇と昭憲皇太后の偉業を称えるこの神社は、歴史と自然が見事に調和した場所です。
訪れるたびに新たな発見があり、そのたびに日本の文化と歴史の深さに感動します。
ぜひ、明治神宮を訪れて、その美しい御苑や夫婦楠、大鳥居の迫力を直接感じてください。
特に、初詣や季節ごとのイベントでは、さらに特別な体験が待っていますよ。
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