江戸時代の農民ってどんな暮らしをしていたのでしょうか?
貧しくてギリギリの生活だったのか?それとも皆で助け合ってそれなりに幸せだったのか?
今回は江戸時代の農民の1年間のライフサイクルを調べてみました。
こんにちは歴史素人研究家ルファです。
助手のエヌです。
ね〜ぼです。
は〜💦
どうしたんですか?ね〜ぼ
そんなため息なんかついちゃって!
ね〜ぼがため息なんて珍しいですね・・
ね〜ぼがそういう時は眠い時か、お腹が空いてるかのどっちかですよね?
違いますよ〜
毎日同じ事してると1年間があっという間に経っちゃうな〜って思って!
おお、意外な悩みですね!
ね〜ぼもそんな事も考えるんですね!
私だって、考えますよ〜!
もっと四季を感じながら生きていきたいんです。
四季ですか〜!
確かに現代では昔に比べてあまり四季によって生活環境が大きく変わる事はないのかもしれないですね。
確かに、江戸時代とかの農民の暮らしはきっと自然と共に時間を経過を感じていたのかもしれませんね〜
そう言われると、ちょっと江戸時代の農民の1年間の過ごし方って気になりますね!
それでは今回は、江戸時代の農民のライフサイクルについて調査してみましょう。
江戸時代の農民の概要
「百姓は生かさず殺さず」というのは家康の言とも伝えられ、幕府の指針とされていました。
しかし江戸時代の人口の約8割〜9割を占めていた農民は、もちろん優遇されてはいませんでしたが、決して虐げられていただけの存在ではなかったといわれています。
江戸時代前期において、日本の人口は 1千万人と推測され、そのうちのほどんどが農民でした。
幕府や諸藩は、農民に対しては姓を公式に名乗ることを禁じていました。
さんやく なし くみがしち ひゃくしょうだい
しかし、農民にも三役(さんやく)(名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい))という役職があり、その3役には「名字帯刀」を許されており、武士に準じた身分として格付けされていました。
農村では、村方三役を中心とした上級クラスの農民が幕府や諸藩に対して定め られた年貢を納めることにより、一定の自治権を許され、村民を支配していました。
中でも名主というのは別名、庄屋とも呼ばれ、農村の最高責任者でした。
幕府や諸藩は、検地によって農地の所有権が明確にされるとともに、農地の所有者である「本百姓」と、所有権のない「小作人」との間では、厳格な身分の格差が設定しました。
自身の名義の農地を所有できず、地主から農地を借用し小作料を支払った農民生活は困窮を極め、農村における貧困層を形成した。
しかし、意外と、村自体にある程度自治権が任されていたらしく、庄屋が優しい人だと、私たちが想像するような厳しい環境には少なかったとも言いわれています。
へ〜意外と江戸時代の農民は生きやすかったんですね。
う〜ん、誰と比べるかによりますが、僕らが想像する江戸時代の農民って5人組制度でバリバリに監視されて、怠けたらすごい罰則で、食べるものは生きていけるギリギリ、みたいなイメージがありますが、そこまでひどくもなかったみたいですよ。
もちろん、天災や旱魃で食糧不足の時に一番影響を受けるのは農民なので、決して優遇されていたわけではなかったと思いますが・・
確かに、人口のバランスから考えても、農民に一気にボイコットや反乱を起こされたら、流石の武士でも抑えられなさそうですよね。
それに、村には寺子屋といった学べる場もありましたし、農地の売買についても幕府は禁止していたそうなのですが、大きなトラブルがない限り罰則もなかったみたいなんです。
そっか〜、そしたら、思ったより自由な生活をしていたのかもしれないんですね〜!
でも今の私たちの生活からするとやっぱり、辛そうですね・・
そうですね。
でも、江戸時代の前は戦国時代ですし、戦国時代の農民はそれこそ、戦さに駆り出されたり、農地が戦場になったら、農作物は荒らされるし、落武者に襲われることもあるだろうし、それに比べたらマシな時代になったのかもしれませんよ。
どの立場に立つかで、状況の捉え方は変わるものですしね。
確かに〜!
それでは春夏秋冬での農民の暮らしを見ていきましょう。
江戸時代の農民の春の過ごし方!
水田での農作業は春3月頃から始まります。
鍬を用いて田を耕す田起こしから始め、続いて苗代(なわしろ)を作って種をまきます。
4月から5月にかけては田の畔を塗り固め、 田んぼに肥料を投入します。
肥料には、自給肥料と購入肥料がある。
田に水が引かれ、馬や牛を使って代掻き(しろかき)という、田んぼに水を入れ、土を砕いて均平にしていく作業を行います。
稲をしっかりと育てるため、田植えの前に行う重要な準備です。
また、春には畑仕事も始まり、 5月には麦刈りが行われます。
江戸時代の農民の夏の過ごし方!
晩春から初夏にかけての大仕事はなんといっても田植えです。
苗代から稲苗を採って田に植えていく作業です。
田植えは、稲作の全過程中、短期間に最大の労働力を要する作業であり、家族だけでは手が足りませんでした。
そこで用いられたのが結(ゆい)とよばれる労働力の交換です。
たとえば、近所の農家同士が、協力して一軒づつ田植えを一気に終え、翌日は別の人の田んぼを、またその翌日は全員でまた別の人の田植えをするのです。
このように、労働力を互いに提供し合うことによって田植えを効率的に行うという農民の知恵が結(ユイ)だったのです。
近隣の家々が助け合い繁忙期を乗り切ったのです。
ちなみに結婚式の前の結納の語源となった言葉だそうです。
田植えのあとは草取りを繰り返し行います。
夏の炎天下でのつらい作業です。
また、夏の畑では大豆や小豆が成長し収穫の時期を迎えます。
江戸時代の農民の秋の過ごし方!
秋は、稲刈りの季節です。
稲刈りも短期間に集中的に労働力が必要になるので、ここでも結(ユイ)が活用されます。
みんなで協力して稲刈りを行います。
刈り取った稲は、田で干してから、脱穀作業をします。
脱穀というのは稲の状態から籾(もみ)を分離する作業ですね。
これを昔は人の手で行っていたのですが、江戸時代、千歯扱(せんばこき)なる道具が発明されました。
これにより一気に作業効率が上がり、急速に全国に広まったそうです。
そして、をすり臼で、すって玄米にし、籾殻やゴミを取り 除いた玄米を俵に詰めれば稲作は一段落となります。
また秋の畑では、野菜などが収穫されます。
農作業が一段落すると、豊作を神に感謝する秋祭りが行われます。
場所は鎮守村の守り神を祀る神社の境内です。
そこでは、村芝居と言われる農村の歌舞伎や相撲などのイベントが催され、子どもたちも小遣いをもらって駆け付けていくのです。
まさに田舎の古き良き光景が目に浮かびますね。
江戸時代の農民の冬の過ごし方!
冬に入っても、畑の麦作の手入れなど 農作業は続きます。
また、山野から燃料用・ 暖房用の薪を採ってきます。
耕地での農作業が少ないぶん、家で俵を編んだり、縄を綯ったりもします。
この時期に農具の修理も行います。
年が明けたら 正月です。
お正月は、江戸時代の農民たちにとっては一大行事です。
元日には村の神社に初詣に行き、1月2日からは近所の家や他村の親類などに年始回りをします。
年始に挨拶まいりに行く際には、お菓子やお茶などの手土産を持っていきます。
1月なかばに松飾りがとれると、徐々に春からの農作業の準備がスタートするのです。
こうして、農民たちの年問サイクルは回っていくのです。
へ〜、こうやって江戸時代の農民は一年を過ごしていたんですね〜
なんだか現代になって、祭りなどの行事への目的が薄れてきているように感じますが、昔は娯楽が少ない分、それが何よりの楽しみだったんでしょうね。
そうですね。
今は、そういった豊作への感謝や地域での協力体制は薄れてきましたが、逆にいうと、それだけ身の回りに楽しめるものが増えたり、近隣の人と協力しなくても生きていけるともいえますね。
なんだか寂しい気もしますが、でも日本人自身が選んできた道でもありますもんね〜!
でもなんだか、地域の祭りとかに参加したくなりました〜
(ね〜ぼの祭りってどんなのだろう?)
そうですね!
昔から続いているもので残していけるものは残していきたいですよね〜。
いかがでしたでしょうか?
今回は江戸時代の農民の一年のライフサイクルについて調査してみました。
最後までご視聴頂き、ありがとうございました。
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