前回までは古代の忍者の起源説の歴史を記事にしました。
中国起源説や、日本の起源説!
こちらの記事も是非みて下さい。
さて今回は忍者が一番活躍した時代、戦国時代のお話です。
甲賀忍者、伊賀忍者は一体どんな組織だったのですでしょうか?
是非、最後まで読み下さい。
こんにちは素人歴史研究家ルファです。
助手のエヌです
ね〜ぼです。
さて今回は戦国時代に活躍した忍者について解説したいと思います。
前回までの記事で、神話のあの人が忍者だったなんて話をしましたが、忍者が一番活躍した時代といったら、やっぱり戦国時代ですね。
戦国時代の忍者といったら、やっぱり伊賀忍者や甲賀忍者ですよね。
伊賀忍者、甲賀忍者、聞いたことがあります〜。
風のように風になり、雨のように雨になり、雷のように雷になるんですよね〜。
いやちょっとね〜ぼが何をいってるか変わりませんが、なんかそんなような感じてがしてきました。
それではまずは江戸時代の忍者の活躍から解説していきますね。
伊賀流忍者
伊賀忍者は、三重県伊賀市と名張市に本拠を置く忍術の流派でした。
伊賀忍者の特徴は1大名に仕えるというより複数の依頼人に、同時期に契約を結ぶというビジネスのような関係を築いていたらしいです。
なので、敵対する大名同士に同時に忍者を送り伊賀忍者同士で争うこともあったようです。
お金さえ、払えば仕事を遂行する!
まさに、現代人のビジネスライクですね。
武士は主君の為に、忍者はその技術を見せつけるためにといったイメージはまさに伊賀忍者から来るものなんです。
また、伊賀忍者は組織化されており、意思決定は上忍三家として知られる 3 つの強力な家の意向に大きく影響されたと言われています。
上忍三家は服部家、百地家、藤林家の三家です。
中でも服部家は、忍者の中で最も有名な服部半蔵を輩出したことで有名ですよね。
基本的に伊賀忍者の他の家系も三家から依頼が降りてきて複数の大名に忍者を派遣するという完全組織化された集団だったそうです。
現代でいうと忍者の派遣会社みたいな感じです。
伊賀忍者は火術や呪術が得意とされており、火術は、火薬玉や、火矢などを使い、呪術は「九字護身法」(くじごしんほう)という術は有名です。
りん、ひょう、とう、しゃ、って、奴ですね。
九字護身法は、忍者たちが戦闘に備えるために行っていたとされています。
この呪文を唱えることで、自分自身の気力を高め、敵の攻撃や呪いから身を守ることができると考えられていました。
また、この呪文を唱えることで、忍者たちは身体と心を一体化し、集中力を高めることができたとされています。
また、伊賀は京都から近く、京都から流れてきた政治家や情勢に精通した人材を忍者として育成できたため、教養のある者も多く、文字の読み書きができる者も伊賀忍者には多かったといいます。
伊賀忍者って、なんだかビジネスライクなイメージがあるんですね。
そうですね。
彼らは大名に仕える武士と違って、複数の依頼人と同時期に契約を結ぶことができるビジネスのような関係を築いていたんです。
ということは、敵対する大名同士に同時に忍者を送って、伊賀忍者同士で争う時はどうするんですか?
たぶん、それぞれの依頼人が伊賀忍者同士で競わせるような形になったのかもしれないですね。
お金さえ払えば仕事を遂行するというのが彼らのビジネスの基本だったから。
そこには、涙なくしては見られないドラマもあったかもしれませんよ。
なるほど〜!
やっぱり戦国時代は厳しい時代だったんですね。
そうですね。
そんな伊賀忍者も一度信長に攻められて壊滅状態になった出来事もあったんです。
上忍三家の一つ、百地家の百地三太夫(ももち さんだゆう)は「天正伊賀の乱」(てんしょういがのらん)で信長と2度に渡って争ったんです。
1度目は信長の息子が伊賀に攻めてきますが、忍者特有の奇襲やゲリラ戦に持ち込んで圧勝し、織田軍を敗走させましたが、2度目は多くの軍勢の前に大敗し、里は壊滅状態になったんですって!
信長も伊賀忍者を警戒していたんでしょうね。
ええ〜伊賀はそれで滅びちゃったんですか〜?
いや、これで伊賀忍者が滅びたわけではなく、多くの指揮官はうまく逃げ延びたと言われていますよ。
その後、信長と同盟していた徳川家との関係は良好になったと言われています。
その立役者が服部半蔵こと服部正成(まさなり)です。
本能寺の変のあと、堺にいた家康は服部半蔵に守られて三河国に戻ったのです。
この時の家康は家臣も少なく非常に危険な旅だったので、それを命懸けで護衛した功績により、伊賀忍者は徳川家に仕えていくことになるんですね。
へ〜さすが伊賀忍者ですね。
そしたら戦国時代の最強の忍者は伊賀忍者だったんですね。
いや、戦国時代には伊賀忍者以外にも多くの忍者がいました。
中でも、よく、伊賀忍者のライバルとして伝えられるのが甲賀忍者です。
では、次は甲賀忍者について解説していきましょうかね。
甲賀流忍者
甲賀流忍者は、伊賀流忍者と同様に戦国時代に活躍した忍者の一派であり、滋賀県甲賀市を中心に活動していました。
甲賀地方は山が多く、忍者にとっては隠れやすい環境であったため、甲賀流忍者もこの地形を利用して任務を遂行していました。
甲賀流忍者は、情報収集や諜報活動、暗殺など、様々な任務に駆り出され、その技術や知識を活かして、戦国時代を生き抜きました。
甲賀流忍者は、甲賀地方の歴代の領主達との緩やかな主従関係にあったとされており、共同体である「惣」に参加する者はみな対等な立場でした。
また、甲賀流忍者は特定の大名との主従関係がはっきりしていたことから、雇い主を特定の者に絞っていたと言われています。
甲賀忍者は、普段は農業や商人として活動し、指令があるとその地へ行って活動していました甲賀地方には薬草が豊富に自生していたため、甲賀忍者は「薬売り」に扮して情報収集をしていたともいわれています。伊賀流忍者が徳川家に仕えていたのに対し、甲賀流忍者は豊臣秀吉の指示により、徳川家を監視する役目も担っていました。
甲賀忍者は、毒薬を用いた奇術が得意であり、普段の生活では薬売りを装って情報を集めていました
それもあって、甲賀忍者は医療や薬に精通しており、現在でも甲賀市には製薬会社が多くあります。
代表的なのは、大塚製薬や小林製薬などで、他にも多く存在しています。
伊賀流忍者とは対照的に、甲賀忍者は依頼主を特定の家にしぼり、同時期に複数の主君に仕えることはありませんでした。例えば、甲賀はもともと佐々木六角氏の配下にありましたが、仕える大名が没落すると、織田氏、豊臣氏、徳川氏の順番で主君を変えていきました。
主君は変わりますがそれは伊賀のように同時期にではなく、順番に変わっていくといった感じです。
なので、豊臣家に仕えていた時に、甲賀は徳川を監視していたので、その時すでに、徳川に仕えていた伊賀とライバル視される原因になったと言われています。
実際のところは、そこまで歪み合うほど仲が悪くはなかったなんて話もあります。
へ〜同じ忍者でも伊賀と甲賀では主君への使い方などちょっと違うんですね。
そうなんです。
伊賀がいろんな企業に優秀なスタッフを派遣する大手派遣会社だとすると、甲賀は大手メーカーの優秀な下請け会社みたいな感じでしょうか。
もし、取引先の大手が潰れても、その技術力の高さから他の企業がまた盟約してくれるみたいな。
なるほど、そう言われると確かにそんな感じもしますね
ちなみに、「甲賀」はよく「こうが」と読まれるので、「こうが」と読んでいましたが、実はこれは誤読で、正確には「こうか」と読むらしいです
え?そうなんですか?
それは僕も知らなかったです。
あ、そうそう、前回のお話でもありましたが、甲賀忍術の起源は前回お話しした、聖徳太子の部下の大伴細入なんですって!
江戸時代に書かれた甲賀の忍術書の『忍者應義伝』(にんじゅつおうぎでん)にそう書かれていたそうなんです。
確か大友細入の先祖が、神武天皇に仕えた道臣命(みちのおみのみこと)なんでしたっけ?
そう考えるとすごい繋がってるんですね〜。
そうなんです。
なので、道臣命(みちのおみのみこと)が使ったとされる諷歌倒語も甲賀はよく使っていたなんて話もあるんです
諷歌倒語ってなんでしたっけ?
諷歌倒語(そえうたさかしまごと)とは、言葉の意味を逆さまにして伝える技術で、相手にはわからないように伝えることができる!
いわば合言葉や暗号みたいな感じとして使われていた言葉ですよ。
忍者たちはこの技術を使って敵を出し抜いたり、手紙を奪われても相手にその意味を理解させないようにしたんです。
戦国時代の忍者ってすごいんですね。
そ〜なんです。
でも戦国時代の忍者は何も伊賀忍者、甲賀忍者だけではないんです。
そしたら、次回は伊賀、甲賀以外の忍者についても解説していきましょうか!
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