「古代の秘密を解き明かす鍵」として一時期大きな話題となった『富士宮下文書』。
しかし、この文書の背後には、多くの矛盾と謎が隠されている。歴史学者から地質学者まで、多くの専門家がこの文書の真実を追求してきました。
そして、現代においても、この文書は多くの著名人や政治家に影響を与え続けています。
このブログでは、『富士宮下文書』の真実と、その不思議な魅力に迫ります。
こんにちは、助手のエヌです。
こんにちは、マスコットのね〜ぼです。
いやいや、これまで古代富士山の麓にあった富士山王朝の書かれている富士宮下文書について長々解説するブログを書いてきましたよね。
前回までの内容を読んでない方は、もし興味あれば、こちらの記事も一度見てみてください
富士宮下文書①⇩
富士宮下文書②⇩
富士宮下文書③⇩
それにしても、富士宮下文書はすごいお話でしたよね。
はい。壮大なお話でした。
でもルファさん、この宮下文書って偽書と言われてるんですよね?
なんでそんな事を言われてるんですか?
う〜ん、それにはいろんな理由があるのですが、
ある意味、日本神話の内容が日本の正史とするなら、宮下文書ってちょっと過激ですからね!
はっ!!
もしや、当時の朝廷によって歴史の闇に葬られたのでは?
そうですね!
そういった都市伝説もありますが、宮下文書にはいろんな矛盾も存在するんです。
今回は、その宮下文書が何故偽書とされたのかについて解説していきましょう。
文書の矛盾点
『富士宮下文書』は、表面的には古代日本の歴史を詳しく、そして魅力的に綴っているように見受けられます。
しかし、その中身をじっくりと読み解くと、いくつかの矛盾点が目につくと言われています。
これらの矛盾点は、文書の信憑性や真実性に大きな疑問を投げかけているのです。
まず、最も明確な矛盾点として挙げられるのが、文書内での日付の記述です。
文書には、紀元前660年の2月11日に神武天皇が即位したとの記載があります。
この日付は、我々日本人にとっては「建国記念の日」として知られるものです。
しかし、この「2月11日」という日付が建国記念の日として制定されたのは、実は1873年、明治6年のこと。
それまでの日本の歴史文献や記録には、この日付に関する言及は一切存在しません。この点だけを取っても、文書の中の記述が後から追加された可能性が高いと考えられます。
さらに、富士山に関する記述も矛盾しています。文書には、コノハナサクヤヒメが富士山の祭神として崇められているとの記載があります。
しかし、実際の歴史を振り返ると、コノハナサクヤヒメが富士山の祭神として広く認知されるようになったのは、江戸時代以降のこと。それ以前の時代に、このような記述が存在することは考えにくいのです。
これらの矛盾点を考慮すると、『富士宮下文書』の中の記述が、古代のものとしては矛盾していることが明らかになるのです。そして、これらの矛盾は、文書の信憑性や真実性を大きく損なってしまうのです。
なるほど、紀元前660年の2月11日に神武天皇が即位した所と、コノハナサクヤヒメのことなどの記述が実際の歴史と異なるんですね?
そうなんです!
神武天皇の誕生の日が2月11日と制定されたのは1873年、明治時代だったんです。
そうなるとそれ以前の書物に2月11日の記述があるのはおかしな話になるんです。
なんで明治時代に神武天皇の誕生日を制定するんですか?
生まれた日は生まれた日ですよね?
後で決めるのは変じゃないですか?
明治時代というのは天皇を中心に国を作っていこうという時代なんです。
なので初代天皇について不確定な事をその機会に決めたんじゃないかなと思います。
さらに、コノハナサクヤヒメの記述も、実際には江戸時代以降に認知されたことを、古代の文書に書いているんです。
えーっと、要するにこの文書、ちょっとおかしいって事ですか?
それとも、昔の人が予知能力持ってたって事ですか?
予知能力って?
おそらく、この文書は古代のものではなく、後から追加や改変が行われた可能性が高いって事ですよ。
でも2月11日といったら、バレンタインデーの前・・・
チョコ食べたくなってきました〜!
歴史学者の見解
『富士宮下文書』は、古代日本の歴史に関する詳細な記述が含まれている文書として、一部の人々から注目を浴びています。しかし、その内容の真実性については、多くの疑問が持たれてきました。
それでは、歴史学の専門家たちがこの文書をどのように評価しているのかは、みていきましょう。
歴史学者たちは、その専門的な知識と経験を活かして、『富士宮下文書』の内容を徹底的に検証しました。その結果、多くの学者がこの文書の内容に疑問を持ち、偽書であるとの結論を下しています。
まず、文書を称賛している名士たちの中に、歴史学の専門家が一人も含まれていないことが大きな理由として挙げられます。歴史に関する文書の真偽を判断する際、その文書を評価する人々の背景や専門性は非常に重要です。しかし、『富士宮下文書』を支持する声の中に、歴史学の専門家の声が一切含まれていないことは、その信憑性に疑問を持つ大きな要因となっています。
さらに、地質学者の神原信一郎氏も、当初はこの文書の内容を支持していましたが、後にその意見を撤回しています。神原氏は、文書の中に多くの誤りや矛盾が含まれていることを認め、その信憑性に疑問を持つようになりました。専門家である彼がこのような結論を下したことは、文書の内容に大きな疑念を持つ理由となっています。
この文書を支持している人たちの中に、歴史学の専門家が一人もいなかったんですか?。
歴史に関する文書の真偽を評価するのに、専門家の意見は非常に重要。
その声がないことは、確かに疑問を持つ大きな要因となっているです。
ん〜…でも、地質の先生は、最初はこの文書をいいって言ってたんですよね〜
ああ、神原信一郎氏のことですね。
でも、後に彼もその意見を撤回して、文書の中に誤りや矛盾があるって認めたんです。
専門家が意見を変えるって、それは大きなこと。
文書の信憑性に関して、多くの疑念を抱かせる要因になっちゃったんですね。
残念ながらそういう事なんです。
偽書の背景
それではなぜ、この文書がなぜ作られ、そしてなぜ多くの人々に受け入れられてきたのか。その背後には、歴史的、社会的、そして経済的な背景が隠れていると言われています。
特に、この文書が作成された背景として注目されるのは、富士周辺の土地や水の利権を巡る争いです。土地や水は、古代から現代にかけて、人々の生活を支える重要な資源であり、それをコントロールすることは、経済的な利益や権力をもたらすことが多いです。『富士宮下文書』が作成された背景には、このような利権を確保するための策略があったのではないかと、ノンフィクションライターは指摘しています。
そのライターの指摘によれば、この文書は、地域の利権を確保するためのツールとして利用された可能性が高いです。文書の中には、事実とは異なる情報や矛盾した記述が多く含まれていますが、それにも関わらず、多くの人々がこの文書を信じてきたのは、その背後にある利権を巡る争いや策略が影響しているのではないかと考えられます。
また、この文書が作成された時期や背景を考えると、当時の社会的な状況や人々の思想、価値観も影響している可能性があります。歴史的な背景や文化、そして経済的な要因が絡み合い、『富士宮下文書』という独特の文書が生まれたのです。
このような背景を理解することで、『富士宮下文書』がなぜ多くの人々に受け入れられ、そしてなぜその内容に疑問が持たれてきたのかが、より明確になるのです。
まとめ
まず今回の記事をまとめますね。
結論: 『富士宮下文書』の不思議な魅力
いかがでしたでしょうか?
『富士宮下文書』が偽書であることは、多くの矛盾点や専門家の検証を通じて明らかになりました。それにも関わらず、この文書が持つ影響力は、時代を超えて継続しています。では、なぜこの文書はこれほどまでの影響力を持ち続けているのでしょうか?
人々は歴史や神話に対する深い興味を持っています。『富士宮下文書』は、日本の歴史や神話に新しい視点や情報を提供するとされ、それが多くの人々の興味を引きつけました。また、この文書が提供する情報や視点が、一部の人々にとって都合の良いものであったことも、その人気の一因と考えられます。
しかし、最も大きな要因は、人々が真実を追求する心の中にある、未知への好奇心と興味でしょう。『富士宮下文書』が提供する新しい視点や情報は、多くの人々にとって魅力的であり、それがこの文書の持続的な影響力の源となっています。
ただ、富士宮下文書の内容が全て嘘であったかというのも今のところ確証もないのです。
今後の研究でもっと色々わかってくるのを楽しみに待ちましょう!
ん〜…真実はどっちなんでしょうね
それをあ〜でもない、こ〜でもないって話し合うのが面白いじゃないですか?。
まさに、それが古代史の醍醐味ですよね。
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