こんにちは、素人歴史研究家ルファです。
こんにちは助手のエヌです。
ね〜ぼです。
前回のブログで失われた東北王朝について扱いましたよね。
そうですね。
東北王朝について書かれた古史古伝「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)の内容について解説しましたよね。
古代日本で大和政権に対抗した王朝があって、でもその歴史の書かれた書物は江戸時代に燃やされちゃったんですけど、ある家の屋根裏から焚書を間のがれた書物が見つかったんですよね〜。
でもそれって本当なんですか〜?
う〜ん、それは微妙なんですよね。
現代では完全な偽書とされているんです。
その辺はエヌさんに今回調べてもらいました。
はい、もちろん、真実はわかりませんが、今回、調べてみたらやはり信憑性に欠ける部分も多くあることがわかってきました。
今回は、この書物がどういった経緯で世に出たのか、という部分を解説していきたいと思います。
それではエヌさん、東日流外三郡誌の発見の経緯やその信憑性についての調査報告お願いします。
天井裏から落ちてきた古文書と『東日流外三郡誌』の発見
それでは私エヌから、東日流外三郡誌の発見の経緯やその信憑性について解説させていただきますね。
東北には、ヤマト王朝とは異なる、古代文明・古代王朝が存在していました。
一見、デタラメに聞こえる話ですが、 1970年代から80年代初めにかけて、「超古代文明ブーム」が巻き起こり、青森県では、 東北にかつてあったという超古代文明を手掛かりに、町おこしや村おこしを行う人々もいたそうです。
大衆媒体や地域社会を巻き込んでの「東北初の古代文明ブームを牽引したのが、『東日流外三郡誌』を含む「和田家文書」なんです。
『東日流外三郡誌』はもともと、青森県の五所川原市(ごしょがわらし)在住の和田喜八郎(わだきはちろう)が、1948年頃、 自宅改装中に天井から落ちてきた事で発見した古文書、通称「和田家文書」に含まれていたといいます。
また、江戸時代、東北の三春藩主の命で、和田長三郎吉次(わだちょうさぶろうよしつぐ)が古代・中世の資料を収集し編纂したものとされます。
ちなみに編纂というのはバラバラにある書物をまとめる作業のことをいいます。
成立は江戸時代、寛政の時勢、(1789〜1801年)頃で、この和田長三郎吉次の末裔が、和田喜八郎であったことから和田家に伝えられたとされているのです。
この時の資料収集には、日本全国はおろか、海外、中国、シベリア、インド、トルコ、ギリシャ、エジプトにまで足を伸ばしたといいます。
この時、長崎の出島に立ち寄り、ダーウィンの進化論やビッグバン宇宙論まで学んだといわれています。
こうして書き留められた『東日流外三郡誌』には、ヤマト王朝に対立するアラハバキ族を中心とした超古代王朝が 東北に存在したこと、その末裔である安東氏が津軽十三とさみなとに水軍を置き、インドやアラビアまで交易を行っていたことが記されていました。
子孫の和田喜八郎は、青森県市浦村(しうらむら)の役場に提出し、それを村では郷土史料として、 1975年~77年にかけて、『市浦村史資料編みちのくのあけぼの東日流外三郡誌』にまとめ、 刊行した、というのが大まかな経緯です。これが1970年代から80年代にかけての古代史ブームやオカルトブームで取り上げられるようになり、まことしやかなる東北の超古代王朝の存在が伝播していったのでした。
なるほど。
この東日流外三郡誌が世に出たのは意外と最近のことだったんですね。
昭和後半の時代は、こういった都市伝説やオカルトがテレビでも人気コンテンツだったという話は聞いたことがあります。
日本が高度経済成長の波に乗ってイケイケだった時代ですね。
そーですね。この時代は宇宙人や、UFOの存在も人気だったみたいです。
それではこれからは、東日流外三郡誌の疑惑について話していきますね。
徐々に明らかになる真実!
こうして、時の政治家や文化人をも巻き込んで、『東日流外三郡誌』は波及していきました。
しかし、江戸時代に成立したはずの古文書としては、不合理な部分が多々指摘されていきます。
江戸時代では存在しない言葉である「惑星」や「洗脳」といった表記が散見されており、 かつ、発見者の和田喜八郎の筆跡と「和田家文書」の筆跡の類似が指摘されたのです。
『東日流外三郡誌』を含めた「和田家文書」は、和田喜八郎 による捏造である可能性が出てきたのです。
『東日流外三郡誌』には、ビッグバン理論やダーウィンの進化論が紹介されていますが、そもそもビッグバン理論は、 その考え方はベルギーの天文学者ジョルジュ・ルメートルにより提唱されたのは1927年のことです。
東日流外三郡誌の成立は江戸時代の1801年頃なので時代が合いません。
つまり、寛政時代にはまだ生まれていないはずのダーウィンの進化論の講義を長崎で受けたのか?という事になってしまうのです。
また、1990年代に行った調査やその後の発掘調査では、中世の十三湊(とさみなと)の繁栄は確認されたものの、独自の安東水軍(あんどうすいぐん)という水軍ががあった痕跡は見つかりませんでした。
また、安東水軍を壊滅させたと言われている14世紀に起こった大津波についても、明確に否定されているそうです。
2005年の青森県教育庁編集の『十三湊発掘調査報告書』では、「一時、公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と結論づけました。
きわめつけは、和田喜八郎の「和田家文書」が天井裏を突き破って落ちてきたという証言自体も否定されたことでした。
というのも、和田家の家屋はかつては茅葺き屋根で、そもそも 屋根板はなかったというのです。
親族の証言では、囲炉裏を使わなくなった戦後になってから、新しい建材で屋根を張ったというのです。
つまり古文書が隠されていた天井裏など、どこにもなかったのです。
かつて、同じ家で暮らしていたことのある和田喜八郎の従姉妹は、「すべて喜八郎さんの作り話。 もともとこの家には何もなかったんです。 古い巻物とか書き物なんて一切伝わってなかったんです。どうして頭のいいはずの学者先生たちがコロッとだまされたんでしょう」と語っていたといいます。
ええ〜?
それでは全部嘘だったんですか〜?
う〜ん、それはなんともいえないんですが、偽造や嘘が少しでも発覚すると、書物全体の信憑性が薄れちゃうのは仕方ない事ですよね。
確かに、一度こうなってしまうと、仮に真実がそこに少々含まれていたとしても、もう信じれなくなってしまうものですよね。
そういった事実が発覚する中で、発見者の和田喜八郎という人も色々な疑惑をかけられ始めるんです。
3流の詐欺師!?和田喜八郎の正体
その後、和田喜八郎は、「東日流外三郡誌」の信奉者からも「五流の詐欺師」と呼ばれたといいます。
青年時代、郷土史家の手伝いをしていたこともあった和田喜八郎は、求める資料の内容を伝えれば、要求にあった「古文書」を見つけてくると評判だったといいます。
今では、実際にはおそらく和田喜八郎自身が書いたのであろうと思われます。
そのほかにも、和田喜八郎が、藤原氏の祖先である安倍頼時の骨と称して、鯨の骨を阿部家の墓に入れた疑いもあります。
この時、ある歴史学者が自身の説と合致することから、その骨を本物だと勘違いし、それを発表してしまったため、大衆媒体で扱われたり、町おこしとして宣伝されたりと、話がどんどん大きくなってしまいました。
今ではほとんど信じられなくなった『東日流外三郡誌』ですが、今でも超古代史ファンやオカルトファンを魅了し続けています。
なかには、あれだけ膨大な「和田家文書」をたったひとりで構想し、書くことが本当にできたのだろうか?と、考える人もいました。
というのも、この和田家文書はかなり膨大で、怪しい部分はたくさんありますが、本当かもしれないとおもえる部分も多々見つかっていると言われています。
また、趣味や酔狂すいきょうではやるにはあまりに膨大な量だったというのも引っかかります。
真偽のほどはともかく、古来より中央から虐げられてきた東北の人々にとって、「ヤマトに対抗した王朝が東北にあった」 という歴史ロマンは、自らのアイデンティティと郷土愛を鼓舞してくれる刺激になっていたのかもしれませんね。
う〜ん、和田喜八郎さんはつい嘘をついちゃんたんですかね〜?
それがどんどん大きくなっちゃんって、こんな事に大変な問題になっちゃたのかな〜?
確かに、最初の軽はずみな嘘が、引き返せなくなってしまった可能性はありますよね〜。
これだけ、大きな問題になってしまって内心焦っていたりしたのではないでしょうか?
でも、確かに、おかしなところはたくさんありますが、こういった古文書は、原本を時代時代で編算したり、誰かが付け足したりすることもあるみたいなので、全てが嘘であると証明することも難しいみたいなんです。
和田喜八郎さんが全て作った作り物だと断罪するのもかわいそうですよね。
ただ、やはり、信憑性は欠けるのは事実ですけどね〜。
和田喜八郎さんはもうすでに他界されていて、その真実はわかりませんが、当時の多くの人々を巻き込んだ、いい意味でも悪い意味でも一大ムーブを作ったことは間違い無いですよね。
ね〜ぼは本当か嘘かどっちだと思います?
う〜ん、むづかしくてわからないですよ〜!
ただ、今、すごく眠くなってきたことはわかります。
ね〜ぼが眠くなってしまった所で、今回の記事は終わりにしようと思います。
こういった古史古伝の書物は、結局真実か真実でないかは今も議論されたりしていて、すごく面白いんです。
今回も最後までご視聴いただきありがとうございました。
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