日本の歴史は、古来から数多くの伝説や神話に彩られてきました。
その中でも、一際謎に包まれた存在が『富士宮下文書』です。
この古文書は、日本の起源や古代の歴史に関する衝撃的な内容を秘めており、多くの歴史愛好家や研究者の間で話題となっています。
もしかしたら、古代富士山の麓に富士王朝が存在し、そうなれば日本の歴史が覆されるかもしれません。
(※もちろん、現在一般的には偽書とされています。ただ全てが嘘なのかはわからないので熱く議論されているのです。)
舞台は、神秘的な富士山の麓。
古代の日本と中国、そして未知の歴史の扉が、今、ゆっくりと開かれようとしています。
こんにちは、助手のエヌです。
こんにちは、マスコットのね〜ぼです。
さて、今回はテーマは謎多き富士宮下文書です。
古代日本好きにはたまらないテーマですね。
ですね。
数ある古史古伝の一つ。
古代富士山に王朝があったという内容は富士宮下文書特有のものですもんね。
なんか、凄そうな話なのはわかるんですが、そもそも古史古伝ってなんですか〜?
なるほど〜。
つまり、嘘の古代の本って事なんですね〜。
確かに古史古伝は古代史の主要な史料とは異なる内容の歴史を伝える文献のことで、その信頼性には疑問が持たれています。
ただ、古代の歴史には正史とされる記紀も不確定な事も多く、古史古伝を全てを嘘として片付けてしまうのも勿体無いような・・。
一部本当のことも混じってるのではないかという学者もおり、今なお熱い議論がされているというわけです。
古代史ファンとしては一つのエンタメの要素として本当に面白い書物なんですよ〜!
個人的には真実かどうかはどっちでも良くて、単純に面白いな〜って思ってます。
確かにそう言われると、
面白そうな・・・
眠くなるような・・
う〜ん、お腹すいたな〜!
結局、ね〜ぼはお腹が空いてるんですね💦
まあ、おやつは後であげるとして、ルファさん、古史古伝、富士宮下文書の話を聞かせて下さい。
では、今回は、「富士宮下文書とは一体なんなのか?その発見と今まで経緯」について解説しますね。
『富士宮下文書』とは?
富士山の麓、神秘に包まれた土地から、一つの古文書が発見されました。その名も『富士宮下文書』。この文書は、日本の歴史に新たな光を投げかける可能性を秘めています。
『富士宮下文書』は、他の古文書とは一線を画す特徴を持っています。まず、その記述の詳細さ。従来の文献には触れられていない出来事や人物が詳細に記されており、それが真実であれば、日本の歴史の一部が大きく変わることとなります。
また、この文書は、日本だけでなく、中国や中央ユーラシア大陸などとの関係にも触れており、国際的な視点からも非常に価値のある情報を持っています。
この『富士宮下文書』が、真実の歴史を伝えているのか、それとも別の何かの意図が隠されているのか。その謎を解き明かすために、一緒にこの文書の深淵を探求してみましょう。
『富士宮下文書』の発見の経緯
この文書の発見は、まさに歴史的瞬間と言えるでしょう。明治時代に三輪義熈という一人の男が、古代の記録を求めて富士山の麓を訪れました。
そんな三輪義熈が富士山に訪れた際、宮下家という家系が代々保管してきたこの文書に出会います。
『富士宮下文書』は、富士山の麓、明見村(あすみむら)にある宮下家に代々伝わる古文書であり、その他の名前として「富士文書」「富士古文献」「徐福文献」などとも呼ばれています。
徐福文献?
富士さんで見つかったので、「富士文書」や「富士古文献」はわかりますが、徐福ってなんですか?
徐福は、古代の中国の人物の名前ですよ!
そう、この文書は、紀元前三世紀頃、秦始皇帝の命により不老不死の薬を求めて旅をした中国の方士・徐福とその子孫が記録したものとされています。
方士ってなんですか?
紀元前3世紀から西暦5世紀にかけての中国において、瞑想、占い、気功、錬丹術などを用いて権力者にアドバイスする職業の人たちですよ。
なるほど!そうなると徐福って人がもっと気になってきました〜。。
徐福に関しては謎が多すぎて簡単には説明できないですね。
富士宮下文書での徐福に関しては次回の記事で詳しく説明しますね。
ここでは、中国から来た方士とだけ覚えといて下さい。
徐福は、大船団とともに九州に上陸し、その後紀伊半島を経て富士山麓に到着しました。『富士宮下文書』によれば、彼が富士山麓に到着したのは孝霊天皇74年、(推定紀元前217年)で、当時の富士山麓には「富士古代王朝」という高度な文明を持つ王朝が存在していました。
徐福は、この王朝の学問や文化に深く感銘を受け、その知識や歴史を記録することを決意しました。
当時の富士王朝にあった記録は全て「神代文字」という古代の日本の文字で書かれていたので、それを漢文に変換し、その後も彼の子孫たちによって継承されていきました。
これが富士宮下文書の原文ってわけですね。
しかし、延暦19年(西暦800年)に富士山が大噴火を起こし、徐福が編纂した文書は溶岩によって埋もれてしまいました。
ええ〜!それは残念ですね〜!
この時代の富士山噴火の被害は凄まじいものでした。
幸い、富士山噴火前の天智天皇の時代に作成された写本が残されており、これが神奈川県の相模国の寒川神社(さむかわじんじゃ)に運ばれました。
しかし、寒川神社も弘安5年(1282年)に洪水により被害を受け、写本は流されてしまいました。しかし、再びの写本が存在し、それを宮下家が代々保管していました。
それからずっと宮下家で保管され三輪さんが発見する事になるんですね。
いや、まだ宮下文書にはドラマがあるんですよ。
幕末の文久三年(1863年)、宮下家の屋敷で火災が発生しました。
この時、宮下家の娘・梅子は、家の伝承に従い、『富士宮下文書』を最優先で救出しようとしました。
しかし、何者かがこれを奪おうとし、梅子はその人物を追い、文書をなんとか取り戻しました。
そんなゴタゴタで、一部この写本は燃えてしまいますが、この事件を経て、文書はさらに重要視されるようになりました。
そして、明治時代にバラバラなテキスト群だった文書を三輪義熈がまとめて、「神皇記」として、文書の一部が公開されることになるのです。
そして、昭和六十一年に『神伝富士古文献大成』として刊行され『富士宮下文書』の内容は広く知られるようになりました。
どうですか?
古文書一つとってもその行方はかなりドラマチックな事件がたくさんあるもんなんです。
確かに、色々ありましたが、紀元前3世紀ぐらいに徐福が書いたとするなら、ものすごい長い月日が立ってますもんね。
いろんなドラマがあっても不思議じゃありませんよね。
逆に今まで残ってるの不思議なぐらいです〜。
そうなんです。古代の書物とは余程大切に保管しないと残らないし、後世に、古代に書いたものとして出版された偽書も多いので、古史古伝はなかなか信じられないという人がいうのも納得です。
私としては、幕末の文久三年(1863年)、宮下家の屋敷で火災に何やら事件性を感じますね。
さすがえぬさんですね。
そうなんです。この火災での出来事はちょっと不可解なんです。
幕末の文久三年(1863年)に起こった宮下家の屋敷で火災
幕末の文久三年(1863年)の冬初め、寒さが厳しい中、富士山の麓、明見村に位置する宮下家の屋敷で不審火が起きました。
冷たい冬の風が吹き抜ける中、炎は急速に屋敷全体を覆いつくしてい来ました。
その炎の中、宮下家の娘、梅子は何かを決意したように、燃え盛る屋敷の中へと飛び込んでいきました。
彼女の心の中には、「あれだけは、どんな犠牲を払っても守らなければならない」という強い決意があったのです。
梅子は、屋敷の屋根裏部分へと駆け上がり、そこに保管されていた多くの古文書を次々と取り出し、箱に詰め込んでいきました。
その中には、宮下家が代々大切に隠してきた「富士宮下文書」も含まれていました。
この文書は「ご神璽」とも称され、何層にもわたる渋紙で慎重に包まれていたといいます。
この文書は、家族の中でも見ることが許されない、極めて神聖視されているものでした。
もし、その中身を見てしまった場合、「目が潰れる」なんて言い伝えがあったぐらいです。
宮下家の伝承によれば、何か災厄が家に訪れた際には、この「ご神璽」を何よりも先に安全な場所へと運ぶようにと、代々の当主に語り継がれてきていました。
その伝承を知っていた梅子が行動に移したのです。
しかし、梅子が文書を詰め込んでいる最中、突如として何者かが彼女の側へと忍び寄ってきました。
その人物は、「ご神璽」が詰められた箱を力ずくで奪い取り、屋敷から逃げ出そうとした。
梅子は直感的にその人物を追いかけ、屋敷の外へと飛び出していきます。
しかし、その途中で彼女の叔父たちが男を取り押さえ、男は箱を放り投げて逃げ去ったといいます。
梅子が振り返ると、屋敷は既に炎の海と化しており、中に戻ることは不可能でした。
結果として、「ご神璽」以外の文書は全て焼失してしまったのです。
これが(1863年)に起こった宮下家の屋敷で火災の詳しい詳細なのです。
やっぱり変ですね。この事件!
梅子さんが頑張ったって話じゃないんですか?
いや、ね〜ぼそこじゃないんです。
この宮下文書には、古代富士山に王朝があったという伝承が書かれていた。
しかし、そんな王朝がかつてあったなんて話は、古事記、日本書紀にも書かれていないし、誰も知らない。
そんな文書が世に出回れば、困る人たちもいる。
つまり、そんな勢力による、火事を装い、文書抹消を狙った計画犯罪だったとも考えられますね。
まあ、真実はわかりませんが、そうとも考えられますよね。
でも、もし仮にそうだとしたら、一体、富士宮下文書には何が書かれていたのか気になりませんか?
はい、凄く気になりますね!
こんな事件まで起こして抹消したかった文書!
事件の香りがします!
う〜ん、・・・
私はお腹が空いてきました!
しょうがないですね〜!ね〜ぼは!
では今回は時系列に何が起こったのかをまとめて、この続きは次回の記事でお伝えすることにしましょう!
時系列のおさらい
紀元前217年
徐福が不老不死の薬を求めて中国から九州に上陸し、富士山麓に到着。
徐福が富士山麓に到着した際、高度な文明を持つ「富士古代王朝」が存在していた。
徐福は神代で記されている歴史や伝承を漢文で記録する。これが宮下文書の原型。だから「富士文書」「富士古文献」「徐福文献」とも呼ばれる。
626年〜672年
626年〜672年は天智天皇が生きた時代。
この時代に作成された写本が神奈川県の寒川神社に運ばれている。
延暦19年(西暦800年)
富士山が大噴火し、阿祖山大神宮が溶岩に埋もれる。その時原本も消失。
しかし、写本が神奈川県の寒川神社で残る。
弘安5年1282年
神奈川県の寒川神社は洪水により被害を受け、写本は流される。
しかし、再びの写本が存在し、それは富士山の麓の不二阿祖山太神宮の宮司の宮下家が代々保管。
ちなみに不二阿祖山太神宮は富士山の近くにたくさんある浅間神社の本宮です。
この時点からは、富士宮下文書は富士山付近にあったというわけです。
文久3年(1863年)
宮下家の屋敷で火災が発生。
宮下家の娘・梅子が文書を救出し、奪われそうになるが取り戻す。
一部燃えてしまう。
明治時代
三輪義熈が富士山の麓を訪れ、代々宮下家が保管していた『富士宮下文書』に出会う。
その後、「神皇記」として文書の一部が公開される。
昭和61年
『神伝富士古文献大成』として刊行され、『富士宮下文書』の内容が広く知られるようになる。
以上が『富士宮下文書』の発見の経緯を時系列順にまとめたポイントです。
エンディング
いかがでしたでしょうか?
今回は謎多き富士宮下文書の発見の経緯を中心に解説しました。
これほどまでに不可解な経緯だとその内容が気になりますよね!
次回は、内容も気になるところではありますが、まずは、この、富士宮下文書の作者とされる徐福について深ぼって調べてみようかと思います。
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