マスコットのね〜ぼです。
今日は静岡県の伊豆半島の最南端、石廊崎(いろうざき)にある石室神社(いしむろじんじゃ)と熊野神社(くまのじんじゃ)の伝承についてお話しします。
石廊崎は、古くから航海の守り神として知られ、多くの人々に崇められてきました。
この地域には、神秘的で興味深い伝説がたくさんあるんですよ。
伊豆半島ということは、伊豆七不思議の伝承ですか?
前も伊豆七不思議のお話ありましたよねー。
そうですね。
伊豆には不思議な観光地がいっぱいあるんです。
今日、お伝えするのは石室神社と熊野神社ですが、
石廊崎の伊豆七不思議のお話は、石室神社の伝承お話ですね。
まずは石室神社の伊豆七不思議の伝承をお伝えしましょう。
石廊崎権現の帆柱(ほばしら)の伝承
むかしむかし、播州から江戸へ向かう大きな千石船がありました。
船は米を満載し、順調に航海を続けていましたが、ある日、突然大嵐に襲われました。
波は高く、風は荒れ狂い、船は転覆寸前になってしまいました。船頭たちは恐怖におののきながらも、対岸にある石室神社に助けを求めることを思いつきました。
「どうか、この船を助けてください。無事に江戸に着けるなら、命の象徴である帆柱を奉納いたします。」船頭たちは心を込めて誓願しました。
すると、驚くべきことに、嵐が静まり始めました。波は穏やかになり、風もおさまり、千石船は無事に江戸へとたどり着くことができました。
その後、江戸での用事を終えた千石船は、帰路につきました。しかし、船頭たちは往路の誓願を忘れてしまい、奉納をせずにそのまま沖を通り過ぎようとしました。すると、船はなぜか進まなくなり、やがてまた嵐が吹き荒れ始めました。風と波はますます激しくなり、船は再び危機に陥りました。
その時、船頭は往路の誓願を思い出しました。
「帆柱を奉納すると誓ったのに、忘れてしまったのだ!」
と気づいた船頭は、急いで帆柱を切り倒し、海に投げ入れました。
すると、その帆柱は大波に乗って、まるで神に捧げられたかのように石室神社の前に打ち上げられました。同時に、嵐も嘘のように静まり、海は穏やかになりました。
千石船は無事に帰路を続けることができ、船頭たちは石室神社の神の力とその不思議な出来事に心から感謝しました。それ以来、この地方では、航海の安全を祈るために石室神社に奉納をする風習が続いていると言われています。
へーそんな伝承が残ってるんですねー。
でも、約束を忘れるのは良くないです。
そうですね。
でも石室神社の神様は許してくれたので、優しい神様ですよね。
ちなみに、石廊崎漁港にある石室神社の土台に築かれており、社殿の床面には一部ガラス部分があり、この帆柱を直接確認することができ流みたいですよ。
石室神社(いろうじんじ)
それでは、そんな石室神社なのですが、創建の伝承も結構面白いんですよー。
石室神社の由来や創建時期には、いくつかの説があり、必ずしも定かではありません。それぞれの説についてわかりやすく説明します。
社伝による説
社伝(神社の伝承)によれば、文武天皇が在位していた大宝元年(701年)に初めて堂が建てられたとされています。
最初は観音像と第六天神を安置していましたが、その後、役小角(えんのおづぬ)が神の託宣を受けて伊波例命(いわれのみこと)を祀ったと言われています。
「石廊山金剛院縁起」による説
神社の拝殿内に展示されている「石廊山金剛院縁起」によると、役小角が文武天皇3年(699年)から5年(701年)にかけて伊豆大島に流されたとき、十一面施無畏(じゅういちめんせむい)の神力を得てこの地に至りました。
また、文武天皇4年(700年)の大地震の際には、龍と白鳥が現れてこの地を守ったとされています。
村人の一人が夢の中で海中から宝殿が浮かび上がり、岬の中腹の岩窟に座しているのを見たため、実際に行ってみると宝殿が現れ、その中に十一面観音が安置されていました。その後、天平年間(729年 – 749年)には行基(ぎょうき)によって第六天神が祀られたと言われています。
弓月君に関する説
もう一つの有力な説は、「秦の始皇帝の5世の孫である弓月君(ゆつきのきみ)が日本に帰化し、物忌奈之命(ものいみなのみこと)と称されるようになり、これを祀る神社としてその子孫を名乗る秦氏が建立した」というものです。ただし、この物忌奈之命が、同じ旧伊豆国の神津島に祀られている物忌奈命と関連があるかどうかは明らかにされていません。
石室神社の創建に関しては、いくつかの異なる説があります。それぞれの説が異なる時代や人物に関連しているため、確定した歴史的事実を見つけるのは難しいかもしれません。
しかし、これらの伝承は石室神社が長い歴史と深い信仰を持つ場所であることを示しています。
熊野神社
それでは次に熊野神社についてお話していきましょう
熊野神社と許されぬ恋
熊野神社は絶景の場所にあり、縁結びの神様として知られています。この神社の由来と伝説は、とてもロマンチックな物語に彩られています。
石廊崎近くの長津呂の郷には、「お静」という名主の娘が住んでいました。彼女は「幸吉」という漁師と恋に落ちました。
しかし、二人の恋は身分の違いで許されず、引き裂かれてしまいました。「幸吉」は石廊崎から約9kmも離れた神子元島(みこもとしま)に流され、お互いに忘れることができない二人は、毎晩それぞれの場所で火を焚き、愛を確かめ合っていました。
ある晩、「お静」は神子元島の火が見えないことに気づきました。心配でたまらなくなった「お静」は、小船を出して島へ向かいました。しかし、その時大風が吹き、波は高く、船は進みませんでした。「お静」は一心不乱に神に祈り続けました。その祈りが届いたのか、彼女は無事に神子元島に漂着しました。
そこで再会した「お静」と「幸吉」は、お互いの愛を再確認し、ついに親たちも二人の結婚を許しました。二人は末永く幸せに暮らしました。
「お静」が火を焚いた場所には、熊野権現の祠が祀られたんですって。
これ以来、その場所は縁結びの神様として知られるようになったんです。
へーそう考えるとその場所は考え深いですね。
そして、明治初期の神仏分離により、熊野神社と称されるようになりました。石廊崎の素晴らしい景色と、熊野神社、石室神社の伝説は、訪れる人々に深い感動を与え続けています。この物語は、愛と信仰の力がどんな困難も乗り越えることを教えてくれるものです。
神子元島(みこもとしま)
幸吉が島流しで流された島の神子元島が気になって調べてみたら、実際にあった島なんですよ。
流刑者や灯台の関係者以外、定住した人の記録はなかったそうです。
島は岩礁地帯で植生が少なく、風や波の影響が強い場所で、現在では釣り人の間で、伊豆半島の沖磯で最も潮通しが良い磯として知られています。
世界的に有名なダイビングポイントであり、シュモクザメ(ハンマーヘッドシャーク)の大群が見られ、夏から秋にかけて数百匹のシュモクザメの群れが確認されることもあります。
近海ではザトウクジラ、マッコウクジラ、アカボウクジラ科、イルカ類なども通過する事もあります。
石廊崎の熊野神社は、その自然環境とアクセスの難しさが魅力の一つとなっているんです。
釣りやダイビングの愛好者にとっては特別なスポットなんですよ。
エンディング
石廊崎の石室神社と熊野神社の伝承についての話、いかがでしたか?この地域にはまだまだたくさんの歴史や伝説が隠されています。次回はさらに別の興味深い場所を紹介しますので、ぜひお楽しみに。それでは、またお会いしましょう!
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